センター長 過去のコラム1(第1回~第17回)

第1回 イエローサブマリン(1)

 徳島に向かう飛行機に搭乗してすぐに聞いたのが民謡歌手の金沢明子が歌うイエローサブマリン音頭だった。初めて聞いたが、おかしくて声を立てて笑いそうになる。おなじみのビートルズナンバーである。「酒を片手の 冒険話 行こう ぼくらも 七つの海へ」と聞いたところで、冒険など死語になってしまったと我に返る。七つの海なぞ眼下の富士五湖に芦ノ湖と浜名湖を足したぐらいのものだろう。
 チェルノブイリの年の6月、娘が通っていたブリュッセルのキャンブルの森幼稚園は、それは小さなトラックで運動会を開催した。年少さんのクラスの出し物はイエローサブマリンで、黄色い潜水艦を描いた大きな布を五輪旗のように周囲を囲んだ子供たちが片手で持ち上げ、音楽と共にトラックをゆっくり1周して終わった。あっちをキョロキョロこっちをキョロキョロ、プロフェッサー(保母)に急かされながらの1周だった。
 今日は11月末である。ベルギーのクリスマスは12月6日なので、毎年今頃はルイーズ大通りの両側に並ぶマロニエの大木はすべて電飾に飾られ、グランプラスにはキリスト生誕の1シーンをかたどる人形が据えられる。すでに雪の季節である。菓子屋には果物や野菜をかたどったしんこ細工のような菓子がショーウィンドウに所狭しと並べられ、道行く人の目を楽しませる。当日になると職場ではロテュスのビスケットが大きなサンタの形になって一人に1枚配られる。とすると職場は休みにはならなかったのだと思う。休みとなると12月24日からで、新年が明けるまで誰も出てこない。 (平成24年11月27日)



第2回 イエローサブマリン(2)

 クリスマスが近付いて、2歳には何ヶ月かある息子のために靴屋に行った。夫婦の会話を聞いていたものか、応対していた初老の女性が「ブルフォンセ、ジャメヌワール(濃い青、黒ではないわ)」と言う。ルイーズ大通り714番地の8階で、靴箱を開けて踝までがっちり包み込む自分の靴を満足そうに眺めていた。娘、息子がそうであるように、イエローサブマリンの年少さんたちも社会人になって久しいはずである。
 また12月はリーグドゥミオパチー(筋ジス友の会)の総会の季節である。基礎研究部門ではあったがボスが会長をしていたので教室の職員は職種を問わず誰もが手伝いに行く。公民館の入り口には長ネギを逆さまにし、根っこのモジャモジャを髪に見立てて白い茎に顔を描いてずらっと並べる。学生寮の傍にあるピックウィックという英国風の名前のレストランにはシコンと並んで長ネギのグラタンをメニューに載せていた。この日から町の人たちが私を見知ることになる。小さな商人宿を経営するおばさんが、私の青春はエルビスプレスリーだったのよと話しかける。
 飛行機は紀伊半島の有田川に沿って下降を続け、右手に淡路島を見ながら紀伊水道を飛び越えたところで着陸する。空港からしばらくして大河四国三郎を1,100mの架橋で渡れば徳島である。すだちはこの地の特産であり、当事者の集まりの名前もすだちである。

(平成24年12月11日)


第3回 どんぐり 

 この秋はどんぐりが驚くほど生り、木の下は地面が見えないほどである。こんなことが何年か前にもあった。5年か6年前のような気もするし、案外10年も経っているかもしれない。そんな時は翌春に一斉に芽吹くため、親の木の下を新たなどんぐり世代がびっしりと埋め尽くす。放っておいたらどんなことになるのか見てみたい気もするが、誰かが抜いてしまうので分からない。
 それなのにニュースは日本のあちこちで熊が人里に繁く出没すると伝える。山では餌が不足しているためともいう。熊が駅構内を走っていたかと思えば学校のそばで捕獲されたりと、いつもに増して人間と生活圏が重なる個体がいるようだ。ここ、所沢ではこんなにどんぐりが生っているのに、である。どうも日本の国は広くて、所沢のどんぐりで天下の秋を知ることはむずかしいのかも知れぬ。
 12月になってからの急速な冷え込みで、冬眠すべき生き物はすべて本来の寝場所に落ち着いたことだろう。ひと月前には水鉢にとんぼのヤゴがまだいて、本当に飛ぶのかどうか心配したが、その鉢も毎朝氷に閉ざされている。聞けば北海道の初雪は史上最も遅かったそうだが、そんなことは嘘のように寒さと雪が列島を覆っている。
 160キロの速球を投げる花巻東高校の大谷投手が日本ハムに入団することになった。日本とアメリカを問わず活躍したくて仕方がない若者が、たまたま縁あって札幌に行くことになった。きっと来年の野球シーズンともなれば札幌ドームを沸かすことになるだろう。特に北海道の人たちはファイターズが大好きだ。札幌ドーム球場のすぐそばに、脳外傷友の会コロポックルのクラブハウスがある。就労継続支援B型の施設である。  (平成24年12月25日)


第4回 ハンカチ(1) 

 寒の入りを迎える前に毎日氷が張るようになり、侘助も臘梅も一向に最初の一輪を咲かせる気配がない。それでも年が明けると身の回りが清々しくなり、家の周りの日常風景までが新鮮に映る。場所によっては冷たくも澄んだ水と空気に満ち、光にあふれた神々しいまでの新年の風景が見られ、きっと奈良はそうではあるまいかと想像する。東大寺二月堂に「のりこぼし」なる椿があり、お水取りに合わせてこの花を模った和菓子が売られる。米国にて成人するまでの大半を過ごしたある女性が、自らの母国と教えられた日本への帰国を果たすべきか迷いに迷った時にこの和菓子に遭遇し、一瞬のうちに祖国という意識が脳裏をただ一色に染め上げたという。帰国を決意したことはいうまでもない。奈良とはそのようなところである。
 梅雨時のある一日、奈良を訪れた。近鉄奈良駅から奈良公園に向かって道を少し登っていくと左に県庁があり、その一角に奈良県文化会館がある。その周辺の緑地には鹿が何頭もいて、奈良に来たような実感がもてる。触れてみたい気もするが噛まれそうな気もしてこれまでも触れたことがない。そもそも神の使いだからみだりに触れてはいけないのかも知れない。
 友の会あすかの主催する式典に出席し、夕方の帰京に合わせて昼には来た道を下った。地下の駅に入ろうかという折に上りのエスカレーターを降り立 ち、文化会館に向けて急ぐ人に出会った。良く知る人で、午後の部を目がけて着いたばかりと見えた。この人はいつもにこやかで、笑顔を交えながら物事を語り、不幸を語る際もそれは変わらない。声を掛けようとして相手は気付かず、そのまますれ違ってしまった。その時に初めてその人の素顔を見た。(平成25年1月15日)

 

第5回 ハンカチ(2) 

 神々しさは出雲のことでもある。三瓶山の特異な山容を見ながら日御碕に立てば、国の起りに心惹かれるのである。そも三瓶山は活火山であり、山頂からたらたらと八条の溶岩が垂れ、冷えて固まったところで鉄塊が得られた。素戔嗚尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の腹を割いたら草薙劒(クサナギノツルギ)が出てきたことはこれに拠ると以前に習った。出雲はいまでも鉄の産地であり、日本刀はここの鉄なくしては作れない。三瓶山の最後の噴火は3,600年前だそうだから、紀元前1,600年の出来事の伝承が出雲では今なお続く。
 今ひとつの八岐大蛇が出雲市を流れる斐伊川で、宍道湖に注ぐこの川は砂鉄が取れるだけでなく、古代日本の文化拠点を支える母なる川であった。その右岸をほんの1キロも山道をゆるゆると登ったところに荒神谷遺跡がある。出雲は鉄とばかり思っていたが、つい30年前にここから夥しい数の銅剣やら銅矛、銅鐸が発掘された。道路造成に伴い地名が神庭という名前だったので試しに掘ったら出てきたということだ。真に由緒ある地名は侮れない。
 出雲の会場では山間の町から来た女性が御主人の日々の不行跡を、いたずらをする子供を語るように楽しそうに語った。その笑顔に負けまいとこちらもそれでいいではないかと返す。何回かのやり取りの後に話を混ぜっ返した私に向かって、コラと言わんばかりに拳で小突く真似をして互いに笑いながらその日の討論を終えた。
 さかしらに語るを遠ざける神々しさに満ち満ちた出雲の頂点に出雲大社がある。巨大という言葉はここをおいて我が国にはない。注連縄に向かって100円玉を放り投げ、それが藁の間に挟まって落ちてこなければ願いが叶うという。たわい無いと笑うことなかれ、一年の始まりはそのようにして始まる。(平成25年1月22日)


第6回 カチガラス

 「以前は電柱の上によく巣を作っていたけど最近見かけないねぇ」「何のこと」「カチガラスなんだけど」「そう言えばあんまり見かけないかねぇ」
 女性二人の会話に少しも土地の言葉が混じらず限りなく東京方言に近ければ、聞いていてなるほど自分に向けて語っているのだということは理解したけれども、このカチガラスが何のことだか分からない。そのような鳥がいるとも知らず頭の中を疑問符が点ずれば、会話はそのまま途切れ、稲の刈取りが終わったばかりで紙垂を付けた竹竿が揺れる田中の自動車道をバスは佐賀有明空港に向かってひた走る。
 後日知り得たこととして、カチガラスはカササギ(鵲)のことであり、佐賀県の県鳥である。そればかりか佐賀大学の校章は羽ばたくカササギに佐大の文字をつけていて、今はゆるキャラのカッチー君が売りらしい。カササギだったらカササギと言ってくれたら分かったのにと思いつつ、一度も見たことがないはずが写真を見て驚いたのは実は見たことがあったからである。モスクワのシェレメーチエヴォ空港のトランジットの客から見える窓外の木に黒白パンダ模様の一羽のカラスが止まっていて、以来カラスというのは国が変われば黒一色というものではないのだと長いこと思い込んでいたし、他人にも語っていた。
 カササギに思い入れがあった訳ではなく、七夕の架け橋を作るとして絵本に描かれ、百人一首に大伴家持が詠んだ「鵲の渡せる橋におく霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける」があるので何となく身近なもののように感じるだけで、我が国では佐賀にしか住んでいないらしい。魏志倭人伝では倭に鵲はいないとなっているらしいので後からやってきたものか。学名はPica picaであり、医局に行けば羅和辞典がありどのような意味なのか分かるに違いないのだけれど、建物が異なり今日は雪が凍ってアイスバーンになっているのでとても訪ねる元気がなく、きっと光るものが好きだからということに留めたい。
 県北にくんちで名高い唐津があり、街中を歩いたことはないが沖合いに見える高島はいにしえの水墨画から抜け出たような形の島で、これを見ただけで名勝を訪れた気分になれる。私のデスクの湯飲みは唐津焼で、掌にしっくりする感じがなんとも言えず良い。この湯呑みが自らの子供の脳損傷について真剣な眼差しで訴えた若い母親を思い起こさせる。(平成25年2月5日)



第7回 実は僕 家でカエルを 飼つてゐる 夕立来るも 鳴かないカエル 

 年が改まり、宮中の歌会始で披講した歌に中学1年生の詠んだ1首があり、表題である。職場に子供が同じ学校に通っている女性があり、そのはしゃぎようは尋常ではなかった。「選ばれちゃったのヨォ、妹にも電話しちゃった」「でも自分の子供じゃないんだろ」「それが何だっていうのヨォ」「・・・」だったか、「選ばれちゃったのヨォ、妹にも電話しちゃった」「すっごいねぇ、やったじゃないか」「そうヨォ、すっごいのヨォ」「・・・」だったか覚えが無い。
 応募作1万8千首のほとんどがこの日のために鍛えに鍛えた歌の力をして、練りに練って詠んだものに違いないとして、この中学1年生はどのくらいの労力を費やしたか定かではない。いや、練りに練ったのかも知れないが、それを感じさせない点がまことに宜しいと思いつつ、他には誉め言葉が見つからない。見つめれば見つめるほどカエルはカヘルでなくてもいいのかとくだらないことしか思いつかないのは自分が歌詠みではないせいだ。それほどになぜこの1首なのかが分からず、選者の心を打ったものがどんな点なのか誰しもが不思議に思うに違いない。
 ただ、この声変わり以前の少年が話すところをテレビで見ると、どこまでも無邪気で世間の垢にまみれていないことに好感をもつのである。歌そのものといったその語り口から、将来の夢を語る様までがどれをとっても大切に育てたくなるような少年で、この1首からそこまで見抜いた選者の慧眼には驚きを禁じ得ない。とすると選者は半ば羨望の思いでこの1首を選んだはずで、歌詠みとしての未来ではなく、何であろうと少年の未来そのものに憧れ、その一方で我が身の来し方を顧みたはずである。
 このような少年にあって初めて可能になるようなことが、世渡りに活計を立てるうちに色褪せるばかりと思うよりは、必ず社会の難問をも解いてくれるはずと信じたい。この少年の先輩には貧困とは何かというようなとんでもない難問に取り組んでいる者がいる。一人前になって活躍する姿を見たいものだ、命があれば。  (平成25年2月19日)



第8回 リンデンバウム 

 リンデンバウムの歌が流行ったのが1964年のことである。詞は岩谷時子が、曲は山本直純が書き、梓みちよが歌った。リンデンバウムは菩提樹である。ベルリンのUnter den Linden通り(under the linden trees)はその名の通りに通りにリンデンバウムが両側に植えられ、夏に通る人に深い緑の木陰を提供し、秋には葉が散った枝を通して日の光が降り注ぐ。これが泉に沿って大きく茂るとシューベルトの菩提樹になり、Ich schnitt in seine Rinde, So manches liebe Wort (幹には彫(ゑ)りぬ、ゆかし言葉 近藤朔風訳) と歌い、梓みちよが歌った歌と完全に一致する。
 シューベルトで思い出されるのは、小学校の音楽室に見上げるように並べられたバッハやヘンデルの肖像画に混じる眼鏡をかけた横顔である。バッハなどはあれが地髪だとばかり長い間信じていた。そのバッハが活躍したドイツのライプツィヒは、地名そのものが「菩提樹の生える所」という意味のスラブ語に由来し、いまも菩提樹がそこかしこに威容を誇っている。お釈迦様が悟りを開いたのが菩提樹の下で、栄西が宋の国から臨済禅とともに持ち帰ったのが菩提樹の種子である。我が家のお寺さんにも1本生えているけれども誰か悟った人がいるとは聞いたことがない。
 映画の「菩提樹」は見たことがないはずだが、それを知っているのは東京の学校にいた兄弟がパンフレットを持ち帰ったのだろう。ひょっとしたらずっと後年になって教育テレビで放映したのかもしれない。1956年に封切りされたこのドイツ映画の原題は「トラップ一家」なので、どこでどうなったのかは分からない。ところが1965年になって映画「サウンド・オブ・ミュージック」にリメイクされてから状況は一変する。ジュリー・アンドリュースの歌声はこの国の田舎町の隅々にまで響き渡り、思わず買ったLPは1500円だった。学校に持って行ったら、担任が片面だけで14曲も入っているのかとしげしげと眺め入った。映画の菩提樹もサウンド・オブ・ミュージックも、それを映画館で見た世代はすでにして老境にあり、「親亡きあと」の親の側に立っている。(2013年3月6日)


第9回 まほろばの記

 大分空港を降り立ち国東半島を西へ、杵築を経て別府湾沿いの海岸通りに出れば別府の街と高崎山が見え、まさに絵になる風景というべきか、つくづく観光地に来たという感覚に浸ることになる。かつて別府に行こうとすれば、大阪まで列車に乗り、そして関西汽船に乗り換えて、瀬戸内海を西へと向かうのが常だった。別府市内に入ればそこかしこに立ち上る湯煙のさまにしみじみと良き時代の景色を偲びつつ、むらさき丸に乗った母は今の私よりはるかに若かったはずと数えてみる。
 別府湾の城下カレイ、豊後水道の関サバはつとに知られる海の名産で、これに「りゅうきゅう」なる青魚の料理があり、この土地の海の暮らしを知るに恰好の食事となる。美味求真の著者が大分出身であることはあながち偶然ではあるまい。それよりはるかに後の一村一品運動は、その延長にあると思えばなるほどと頷くほどに食にかかわる産品が多いのである。
 海を見ずに山を振り返れば、国東半島は両子山を中心になだらかな山裾が拡がるような地形で、ところどころに難所があり、そのようなところに磨崖仏が彫られている。その山懐に思想家三浦梅園の旧居跡があることを知る人は多からず、人に連れられて初めて訪れるようなところである。梅園は江戸中期にこの地に生まれ、幾たびか長崎に短期出向くも人生のほとんどをこの地に過ごしたことを思えば、よほど物事を思うに適した土地柄なのだろう。梅園もさることながら、その土地柄を多とするのである。
 夏の終わりの旧居跡にはわずかばかりの屋敷畑があり、さやえんどうを60センチぐらいに拡大したような巨大な豆が風に揺れている。鞘を開けたならば中に入っている豆粒は、豆粒どころか一粒が掌に余るぐらいの大きさだろう。豆を揺らした風は続けて周りの竹藪を涼やかに揺らし、やがて遠景のうちに散じると景色の秋色に染まりつつあるを改めて知り、どれほど静かであるか知るのは風の音を聞いたからに違いない。
 このような土地に住む人を多くは知らぬが古い記憶の中では杵築生まれの方はとてもまじめだったし、銅直(どうべた)という姓の方は好感のゆえに印象に残り、今この地で当事者の会をまとめるのは男性で、篤実の士である。(2013年3月19日)

                 



第10回 武蔵野の春 

 武蔵野は畑の中の屋敷林(やしきりん)である。節分を過ぎ、春の嵐が吹き荒れるころ、恰好の風垣としてその存在意義を主張してそびえたつ。その日の小平もそのような風の強い一日で、かぶっていた帽子が道路の向こうまで飛んで行き歩道との段差で止まった。
 シンポジウム『高次脳機能障害と言われて・・・』~新たな人生の目標を、共に考えるために~が開催されるというので、関心をもって脚を運んだ。第2部の「地域での支援の実際~当事者を囲んで~」が目当てである。大きなホールでの開催だったが随分な入場者で埋まり、北多摩地区の支援ネットワークの絆の強さをそれだけで感じることができた。
 チラシには小型犬があしらってあり、事前申し込みが必要と訴えている。この犬がポメラニアンであり、その日の最大のテーマであったと話を聞いて初めて知った。今、世の中は猫である。テレビの宣伝を見ても、10年前だったら犬の圧勝だったけれど、今は猫である。トレンドに弱い家庭として、とりあえず猫を飼ってみた。どうも人様の役に立ちたいという気持ちをほとんど持ち合わせないようだ。それでいて極めつけの人たらしである。テレビで餌の宣伝を真剣に見つめ、マタタビの香りを付けたおもちゃがあろうものなら、何をさておいてもまずは購入。
 脳卒中を繰り返し、高次脳機能障害者となり、近隣でともに暮らす人たちのほとんどが背を向け、一人暮らしがままならなくなったその人にとって、ポメラニアンが唯一の友であった。病院の先生を端緒としてリハビリテーションプログラムが組まれ、そこにある社会資源の活用によって、そのままポメラニアンと一緒に社会生活を送ることができるようになったという事例の報告と検証であった。病院の先生は、その前後で機能的にほとんど変化がないにもかかわらず社会参加を果たすという目標達成ができることの証明になりましょうかと微笑む。この事例をまとめあげた司会役の満足そうな笑みもすばらしかった。聞けば鶴見俊輔のお弟子さんだそうで、なるほど思想家というものは何の役に立つのか分からないと思っていたが、このような形で花が開くのかと感心もした。
 認知症となり施設にいる母が、家に帰りたい、家に帰れば犬は私の顔を覚えていてくれると言う、その犬も今はこの世にいない。猫とともに暮らす日々を猫から見れば、人はまことに役に立っていること請け合いである。やっぱり犬も飼ってみようか。(2013年4月4日)


第11回 タクシーボート(1)

 南仏マルセイユから鉄路を東にとれば原潜を擁する軍港ツーロンに至る。本線を海際に離れるわずか15kmの支線の終点は地中海を真南に長く突き出た砂嘴の根元にあり、目指す小島はその突端と狭い海峡を挟んで向かい合う。夏の終り、地中海蝉の鳴き納めの頃、思い立って地図に辛うじて載るようなこの島で数日を過ごすことにした。
 エールフランスのストで国内便のほとんどが止まっていた。乗り継げば何とか着きますとカウンターの説明を受けてとんでもない方角のナントに行けば、全く反対方向のストラスブールに行くはずの日本人夫婦とお互いなぜここにいるのだろうかと笑い合う。早朝にパリに着いたはずがマルセイユに着くころには午後3時を過ぎ、なぜか分からぬがツーロンの出発が遅れた支線の古びた2輌編成の電車が駅に着いたのは夕方6時過ぎで、島に渡る船の運航に合わせた乗合バスは最終便が出た後だった。小さな駅の改札口の脇にタクシーを呼ぶための電話番号が記されているが公衆電話が見つからない。一緒に電車を降り立ったのだろう、70歳過ぎの女性が日本人かと我々夫婦に近付く。明るさのない顔はまじめなのか心配なのかその時は知り得なかったが、マルセイユ空港で飛行機を降りる際にガイドブックを忘れてきてしまった身にはとてもうれしい。島に渡るのか、バスはすでに終わってしまった、タクシーなら最後の船に間に合うがと言いながら携帯を取り出すので、渡りに船とばかりタクシーに乗り突端の船着場まで約10kmを車を駆り、代金は折半となった。
 船着場には100人ぐらいは乗れるような小さくもない船が泊まっていて、大した数ではなさそうだが島に渡る乗客がすでに乗り込んでいた。1964年に一度日本に行ったことがあると言ったきりの寡黙な女性が、船に向かって乗るわよと彼女なりの大声を出し切符売り場に急行するのを追いかけ、同じように2枚買う。その時、切符売り場にタクシーボートなる表示があるのに気付いた。船に駆け込みやれやれと船着場を見渡せば、タクシーボートと大書した看板がいくつも立っていて電話番号も付いている。なるほどこれを使えば時間外でも自由に島を行き来できるのだと納得もし、ちょっと事情通になったような気分にもなった。その女性とはそれきりになり、今思い出すに、島の住人ではあったがそもそもはパリの人であったように思われるのである。(続く) (2013年4月17日)                                   



第12回 タクシーボート(2) 

 それ以降は雨がちの日が続いた。ギャルソンに天気予報はどうだと訊けばいつもこんなもんだと答える。島の高みにある簡素なホテルの窓から見える海峡を、目の高さで空軍のジェット戦闘機が轟音と共に飛び去る。当時、サン・テグジュペリ伯の搭乗機が発見されたばかりのことで、この海域で遭難したのかと霏霏として降る雨の向こうに海面を見つめる。
 二晩泊まったところでPCのマウスが動かなくなった。幸い午前の早い時刻に雨が小止みになり、万事に適当なギャルソンではなく新聞を頼りにすれば、一日天気はもつかも知れない。ツーロンか、マルセイユか、ツーロンに無くてマルセイユに行くのは二度手間だと、マウスを求めてマルセイユに出ることにした。船着場に着くまでの道すがらに、島にあって唯一のそれなりに広い平地があり、ブドウ畑になっている。たわわになっているブドウの房を見て畑に侵入し、一粒摘んで口に入れた途端にムッシュウ、ドロボーはだめよと笑いながらマドモアゼルが通り過ぎ、渋いばっかりだと応えれば再び笑い転げる。
 船に乗り、バスに乗り、鉄道を乗り継ぎマルセイユに至り、プラタナスの並木道をトロリーバスで走っているうちに欲が出て、あれも見たいこれも買いたい、問題は支線の電車の都合だけだが、時刻表はかの終点の駅でしっかり手に入れて来た。船の心配は要らない、タクシーボートに乗ればいいのだ。結局、支線の終点までの終電は無視し、ひとつ手前の駅で運転を終える電車を選び、ツーロンからそれに乗り込んだ。ひとつ手前の駅は、駅というより停車場で、駅員が一人いたのにはやれやれというのが正直な感想である。いつもならこれを知っててここに来たかと問い詰める家内が全く口を利かないのも、今にして思えば女の勘か、すでに諦めていたのか。
 気の良い駅員でタクシーを呼びたいのだがと言えば、自ら電話を架けてくれ、すぐ来るという。15分待てど来る気配はなく、駅舎の周りに人家がないことにも今更ながらに気が付いた。駅員を急かすとじゃもう一度というのだが、もう電車の運行はないはずで、駅員がいつ帰るのだろうかとちらっと思ったところで家内の方を見るのは止した。都合30分ぐらいしてタクシーがやってきて、客を乗せる前に運転手自ら降り立ちこちらの意向を確かめる。60がらみのエリツィンが品をなくしたような顔立ちの大男で、銀髪であることからも地中海人ではあるまい。島に帰るので突端の船着場にやってくれ、分かった乗れと短い会話の後に車は動き出す。彼岸前のことで、19時近いが日没までにはかなりの間があり、海水浴をする者もいるぐらいの気温である。(続く)(2013年4月30日)


第13回 タクシーボート(3) 

 車が動き出すと運転手は携帯で何やら話しているが聞き取れない。地理がいくらか分かるようになり、タクシーがどちらを向いて走っているかぐらいは認識できた。なぜか砂嘴の突端を目指さずに、間もなくその根元で速度を落とし、ヨットハーバーに着いてはみたものの突端まで10kmとはいわないがかなり遠いはずだ。ここは島に向かう船着場ではない、船は用意してある、いやここではない、ここからでは余りに遠すぎる、船の代金はいくらだ、そんなには払えない、わざわざ船を用意したんだ、突端まで行ってくれ。降りようとしない客を見て、今度は車の外で携帯で案外長く話している。車の運転を再開したときにモンゴリアンがエラソーにと低くつぶやいた。その後は双方無言のまま確かに突端を目指し、特にぼられたという印象もなく車を降りることができた。
 夕方の気配がいくらか漂い始めたその時は、例の切符売り場にまだ中年の女性がいて、タクシーボートを使いたいと申し込むと明らかに顔色を暗くした。二人連れだったことが一層この女性を困惑させたのかも知れない。電話番号を押して受話器のみを私に渡す、タクシーボートで島に渡りたい、何人だ、二人、島から迎えに行くから船着場で待ってろ、それで切れた。小さな港で迷うことはないが、しばらくして振り返ると切符売り場は戸を閉めていた。あまりに静かで誰もいない場所になり、島までの距離は目測で2kmぐらいか、もっとあるのか、そんなこと以外にすることもなくなった。
 待てどもボートは来ない。誰も乗っていないはずの軍のランチが突然炎と黒煙を噴き上げ暴走し、狭い港内の桟橋に激突した。消火の時だけ水兵が二人船上に現れ、その後は何事もなかったかのように静かになり人影も消えた。とりあえずそこには人がいると確認できた。空はまだ明るいが島のあちこちに灯が見えるようになり、砂嘴の側にも人家らしき灯がいくつか確認できた。と、タクシーが一台着き、我々と同年配の夫婦が降り立ち、男が携帯で何やら話している。飛行機が遅れてニース空港からここにようやく着いたけど何を待ってます、タクシーボート呼んだが来ない、じゃ今呼んだからご一緒にと言って名刺を差し出す。しばらく話し込むうちに日はとっぷり暮れ、待ちに待ったボートが島からやってきた。
 20人は余裕で乗れそうな、お迎えだけにしては大きな船で、これなら大丈夫と思いきや、いくらかと若い船乗りに訊くと、ダメだ、今日はダメだと答え、横からフランス人夫婦が口添えをしてくれるが頑として受け付けない。それどころか日本人はダメだといわれてるというではないか。ここはフランスなんだ、日本に行けば今度は僕たちが同じ目に会うのだから悪く思わないで欲しいといってフランス人夫婦だけが乗り込み、ボートは島に向けて出て行った。
 日がとっぷり暮れ、電柱に暗い電灯が点り、蚊の攻撃が始まった。着いてから1時間半は経っただろうか。民家らしきものの灯に向かって歩くしかあるまいと腹を固めたところで乗用車が一台着き、若い男が二人降りてきた。そのうちのナイナイの岡村に良く似た背の低い男が訊く、何をしてるのだ、ボートを待っていると応じたところで暗いながらもすべてを理解した表情が見えた。島から家の者が迎えに来るから乗るかい、一応ボートは予約したんだがと言わずもがなのことを口走った後悔を上手に受け止め、いやならいいけど一緒に乗れるんだからと言葉を継ぐ。ありがとうと短く述べて待つうちに小さな船がやって来て、定数いっぱいいっぱいの状況で暗い海峡を渡り始めた。父親が中腰でナビゲーターとなり、暗い海を見つめながら操船する娘に絶えず指示を出す。暗闇にもかかわらず恐ろしく速い潮の流れが体感でき、さながら黒い急流の中を小船が遡上するようなありさまで、船内で無駄な会話がなされることは全くなかった。
 島に出かける前に原宿に出来たばかりの小規模作業所を見学し、島にいる間にモデル事業の事業遂行プログラムをPCの中に書き上げた。 (完)(2013年5月14日)



               

第14回 みかんの花 

 出勤のため駅に向かう道の途中で、甘い芳香に満ちた一角で思わず足を止めた。みかんの花である。都会のわずかな地面から生え、毎年それなりの実をつけている。季節がいくらか過ぎれば伊豆の河津辺りではこの香りのする蜂蜜を売るだろう。もう少し山を登っていけば浄蓮の滝がある。
 ハーバード大のHがファッション雑誌の表紙から抜け出たような若い女性とともにやって来て言うには、日本はどれだけ来たか分からない、旧所名跡は見飽きた、日本人の普段着の生活を見てみたい、そんなところに行ってみたい、ところでワサビプランテーションを見てみたい。
 ワサビなら浄蓮の滝の辺りに観光用の栽培地があったではないかと、仕方なく車に乗せて早朝の東名を急ぐ。夜は大仁に泊めてあとは自分で帰って来いということにしよう。浄蓮の滝だけで一日もたないので、御殿場で一旦降り箱根に向かう。途中で富士山が雄大な姿を見せれば、すごいすごいを連発し、記念写真を撮るからどこかに停められないかと言う。大涌谷に着けば、こんな火山活動はわが生涯で見たことはないと絶叫し、食べれば7年余計に生きるゆで卵を二つ食べた。
 箱根を下りて伊豆半島に向かえば日本の民謡を聞きたいとリクエストが来て、そんなものはないと言ってAMラジオの選曲ボタンを押したらたまたま浪曲を流していた。感想を言わないので、ホイットニー・ヒューストンに替えたら女性が喜んだ。
浄蓮の滝ではワサビの栽培地を見て、これはまだ若いのか、草が小さく幼いような気がするのだがと不平を言い、そんなもんだよと言って蜂蜜を一瓶買って渡した。外人の習いとしてその場で蓋を開け、みかんの花の匂いを嗅ぎ、満面に笑みが拡がった。
 山道をあれは何の木だ、杉だよ、杉ではない絶対違う、そうかあ、危ないからまっすぐ前を見てと言いながら西伊豆の松崎に出て、名物のアイスコーヒーを飲ませたら、自分でアイスドコーヒー、アイスコーヒーと口の中で繰り返しながらこのような飲み物は初めてだと喜んだ。雲見の烏帽子山に、傍らをドクダミの花が一面に咲く山道を登らせ、駿河湾を一望する。またもやフジ、フジと大騒ぎをし、写真を撮りまくる。海の向こう、正面に焼津の港が見え、左に御前崎、右に三保の松原が見える。三島由紀夫は天人五衰といい、潮騒といい案外こんな風景が好きだったのかもしれない。
 焼津には磯自慢という銘酒があり、かつてその品評会用の酒を口に含んだらキラキラという形容にふさわしい豊穣の極みを感じた。その杜氏は今もいるだろうか。焼津にはもうひとつ、有力な支援団体であるNPO法人があり、社会福祉法人もある。さらに烏帽子山から見て右に清水、富士、達磨山に隠れた沼津とたどればいずれも活発に活動するNPO法人、社会福祉法人が続き、これが静岡の支援拠点機関の特徴であり、原動力となっている。
 富士の街並みの向こうには大きな富士山が優美な姿を構え、Hは相変わらず写真、写真と叫んでいる。(2013年5月28日)



第15回 二人の西郷さん 

 NHK大河ドラマ「八重の桜」には二人の西郷さんが登場する。一人は吉川晃司が演じる西郷隆盛、もう一人は西田敏行が演じる西郷頼母で、こちらの方は有名ではないし、名前の読み方も分からない。頼母(たのも)は会津藩の筆頭家老であり、二代将軍秀忠の生母、美貌を謳われた「西郷の方」の在所の末裔である。戊辰戦争で敵同士として向き合ったこの二人は、互いの出自が同根であることを承知しており、それゆえ書簡のやりとりもあった。このために西南戦争の終結時に頼母は、またしても賊軍になったかと窮地に立たたされたともいう。
 熊本の菊池氏の流れを汲み、佐賀に起源をもつ西郷氏は1300年代に三河守護代として愛知に移動し、岡崎城を造営した。後に、群馬に起源をつ松平(徳川)氏に押されて愛知・静岡県境の八名(やな)に移動し住み着いた。その場所には現在、豊橋市立西郷小学校がある。西郷氏は娘が秀忠を生んだことで大名の地位を得ることができ、子孫は徳川時代の各地で大官として命脈を保った。一方、本流が去ってしまった佐賀に残されたわずかな一統はやがて南下し、島津の領地に入った。そのようなことで隆盛と頼母のことは別れて500年目の一族の再会ということになる。
 徳川が群馬出身と聞くと意外かもしれないが、群馬県太田市には東照宮がある。また、愛知・岡崎の滝山寺にある東照宮では、毎年正月に上州時代を懐かしみ往時の習わしにしたがってウサギ汁を飲むことになっている。ことほどさように日本人は昔から東西、南北を移動していて、元をたどれば意外なところに行きつくようでありながら、一旦土着して300年か400年経つとすっかり物腰やら立ち振る舞いが固定化して、いわゆる県民性とかお国柄につながってくる。そのように極端な長年月をかけて作られた性質はなべて保守的である。
 一体に日本人の気質はそのようにできているとしか言いようがなく、その中にあって三河人気質は保守本流のようなところがあり、司馬遼太郎も著作でわざわざ触れているぐらいである。先に述べた西郷小学校の少し豊橋駅に近いところに高次脳機能障害者支援センターがあり、全国に知れ渡った存在である。国の事業が始まる以前に高次脳機能障害の子供を抱えた3人の母親が止むに止まれず名古屋の一室を借りて始めた小規模作業所が礎となり今日がある。司馬遼太郎も驚くに違いないこの快挙を見て、創立者となった母親の中には誰か遠くから嫁いで来た人がいたかどうかと思ったりもする。みんな三河の人かも知れない。(2013年6月11日)


第16回 鉄道で千葉に行く

 総武本線の支線の起点として東京・御茶ノ水駅がある。国鉄御茶ノ水駅のホームから西側を見れば深い谷間(たにあい)を濃い緑が覆っている。江戸のいにしえにあっては、この崖の途中から湧き出る清水を桶に汲んでは崖上まで運び、これを売る者があったという。売れるほどにおいしい水は茶の湯にも使われ、この崖は茶崖(さがい)と呼ばれ、お茶の水はそのまま地名になった。駅の真向いの東京医科歯科大の敷地にはかつて女子高等師範があり、大塚に引っ越してから創設の地を記念してお茶の水女子大という名称になった。その東隣りに湯島の聖堂(昌平坂の学問所)があり5月には桐の花が美しく咲きそろう。さらに東側を見れば聖橋(ひじりはし)が見え、アーチ橋の美しさはホームからが一番である。聖堂と神田ニコライ堂を結ぶ橋であるから聖橋である。日曜日ならニコライ堂の鐘の音がホームから聞こえる。
 国電に乗り両国に着けば、総武本線を銚子まで快走する蒸気機関車が時今や遅しとばかりに蒸気を吹きたてて待つ。列車である。デッキのある車輛に乗り込めばつるつるに磨き込まれた木製パーツのぬくもりある手触りが心地よい。巨大な日大講堂を横目に出発すればやがて江戸川を越えて千葉県に入る。人家もまばらな沿線の風景に印象に残るようなものはなく、今でこそ干潟といえば守るべき自然の権化であるが、当時は日本中干潟だらけで、当たり前の存在が新聞記事になることは当然ない。船橋辺りは蘆が茂る様しか記憶になく、向こうに見える東京湾も退屈の極みで、ひたすら谷津遊園地の建物の一部だけでも見えないかと目を凝らしていたのである。千葉駅に着けば銚子方面に汽車はまっすぐ走り去るが、外房に行くには線路がスイッチバックする。秋田の大曲駅のように反対方向に向かうのである。時に千葉市人口19万、昭和32年のことである。
 昭和44年8月20日、全く偶然にも両国に行ったら蒸気機関車総武本線運行最終日だった。飾りをつけた機関車は多くの人の歓声に見送られ、あの車両と車両の間の連結器ががっちりと組み合う音が後方に向けて次々に移動したのを聞き届けてそろりと両国駅を出発した。高度成長期の最中のことで、工業地帯を抜けるまではスモッグで青空が見えなかった。今のような高層ビルがあるわけではなく、10階建てがあろうものならどこからでも見ることができた。千葉県に入るといつの間にか海側を京葉道路が走っていて、驚く事に自動車が列車より速く走っている。そればかりか西船橋の手前で地下鉄が走っていた。それが過ぎれば幕張、検見川と昔ながらの車窓の風景が続くのだが、本当のところでは海岸線はどんどん開発され、そうして谷津干潟だけが今に残った。実は千葉駅もなくなっていて、代わりに東千葉駅があったりして、何が何だか分からなくなった。この時千葉市の人口46万人。
 総武線快速が東京駅の地下奥深くから横須賀線の装いで出発するようになって久しい。二階建てのグリーン車がついているのが特徴だ。両国ではなく錦糸町で鈍行と接続し、沿線の風景はビルばかりとなったけれども、狭くなった空はかなり青い。その青空目がけて今はスカイツリーが屹立する。ずっと住宅が続き、いっときはザウルスが海側に見えたが、いつの間にかなくなった。船橋は大都会になり、津田沼では山側に見えたテレビ塔のようなものがビルに隠れて見えなくなった。幕張の高層ビル群を過ぎれば間もなく千葉駅で、モノレールが接続する政令市の駅である。現在の千葉市の人口96万人。
 そればかりではない。東京駅の地下を延々と歩き続けると京葉線のホームに辿り着く。ここから蘇我行の電車に乗れば、やがて葛西臨海公園を過ぎ、東京ディズニーランドの断片が車窓から見えてくる。山側を見れば東関東自動車道が並走し、総武本線一本槍だった交通機関の選択肢がいくつになったのか混乱しそうだ。しかも鉄路は複々線化し、新幹線の延伸ばかりが交通網の成長ではないことを実感する。総武線とは別のアングルで幕張の高層ビル群を見て、障害者職業総合センター(平成3年設置)と千葉ロッテの本拠地(平成4年移転)を意識しながらさらに進めば蘇我駅に着き、この路線は千葉駅には寄らない。その代り、蘇我駅で乗り換え次の鎌取駅で降りると千葉県千葉リハビリテーションセンター(平成3年医療施設設置)がある。私は鉄ちゃんではない。(2013年6月26日)



第17回 クズ
 毎年、年度前半の高次脳機能障害全国連絡協議会と支援コーディネーター会議は6月末に所沢で行うのを常としている。6月の梅雨時のさなかで、じめじめむしむしの、最低の季節だと長いこと思い込んでいた。ある年に同級生が言うには、自分は6月が一番好きだ、あの緑の最盛期は何ともいえないものがある。以来6月が好きな人も世間にはいるので6月の悪口を言ってはならないとした。
 それを聞いてから梅雨の季節を耐えるのではなく、木々の深い緑に目を移すことを心掛けているうちに、実際に素晴らしい一日が梅雨の合間に訪れることが分かった。雨が止み、冷たい北風が吹くと気温は一気に4月になったかのように下がり、澄んだ空気の中で涼やかな風に揺れる深い緑一色が6月の真昼の風景となる。こんな日が何年かに一度訪れるので、そんな一日のために6月が待ち遠しくなった。深い森を背景にした湖畔のロッジを同じ岸辺を200メートル離れて描き、ロッジの2階から窓を開けて湖畔を見る女性を点景としたアメリカの画家がいた。誰の絵か、どうしても思い出せないのだが、全く同じように深い緑の中を冷たい風が吹いている。
 連絡協議会には全都道府県からお客様がやってくるので、会場となる学院の周りの雑草を取っておきたいと思うのである。その標的はヤブカラシとクズだ。100均でハサミを買って切るのであるが、確かにune fois, c’est fini(一回こっきり)である。正確には一シーズン限りであるので、それで良しとしている。さて昼休みに15分程度、件の2種にハサミを入れるのだが、ヤブカラシは容易である。ツツジの植え込みの中に入る必要がある以外は極めて単純な作業であり、抜くか根元近くで切るだけでとても始末が良い。
 次いで春以来、はびこりに蔓延ったクズである。地面を覆い尽くすほどに蔓を延ばし葉を茂らせ、どこが根元か辿っていくのに案外時間がかかる。蔓を掻き分け、一番太い蔓が地面に潜り込むところを見つけると思わずニンマリとしてハサミを入れる。この根元を一度に二つも見つけておけば数日後にはかなり広い面積の葉が枯れるはずだとそれなりの達成感が伴い、根絶やしにしたと思えばちょっとかわいそうな気がしないでもない。
 驚愕はその数日後に訪れた。ただの一枚だって赤く枯れた葉がないではないか。どこ吹く風とばかりに、ますます蔓延っているではないか。たやすく絶えてしまうヤブカラシとは大違いである。さらに一度ならず二度までも同じようにクズの根元を切ったところで同じ結末だった。訊いてみれば話は簡単である。四方、八方に蔓を延ばしたクズは延ばした先ですぐに根を張り、その一方で素知らぬ顔でそのまま蔓を延ばし続け、またそこで根を張るのである。大元の根を切ったところで、延ばした蔓の先々で地面に根を下ろしているので何ともないのである。クズ退治は止めた。蔓延るクズを見ては、本当に葛切りや葛根湯のクズと同一の草だろうかと訝る日々が続く。と思っていたら早々に梅雨が明けてしまった。(2013年7月9日) 



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