センター長 過去のコラム2(第18回~第31回)

第18回 コンチキチン

 祇園祭は京都の八坂神社の祭礼で、宵山は7月14日に始まり、17日には実に多くの山と鉾が参加する山鉾巡行を迎える。一番は長刀鉾で、これはくじを引かずに毎年一番と決められている。偉いのである。「長」という文字がそこここに掲げられていて、その特異な文字ゆえに何やら神秘的でもある。一説には織田信長の書いたものとあるので、一番を務める理由はその辺りにもあろうか。そればかりか人形を乗せる他の山鉾と異なり、唯一本物の稚児が乗り、これを生稚児と呼ぶらしいが、よそ者には読み方が分からない。なまちごでは生々しいし、いきちご、きちごと読んではみるがなんとも言えない。また、女性を乗せない、あるいは見学さえも許さない点でも他の
山鉾と異なる。
 直径2メートル近い大車輪がそろりと回り始めると、高さ25メートル、重さ11トンの巨大な鉾が、頂点の長刀で邪気を払いながら前進する。鉾本体のぐるりを囲むタペストリーの上半分は京都で作られた金襴緞子で、下半分はペルシャや西域の絨毯で、シルクロード由来といえば、いにしえにあってどれ程の珍品であったか想像に難くない。祇園山鉾は京都の町衆の敬虔な祈りの象徴であるとともに富の誇りであったに違いない。
 一年の無病息災を祈るために八坂神社の厄除粽(ちまき)を買うと「蘇民将来子孫也」と記してある。それぞれの鉾でも売っているが、長刀鉾の粽は早々に売り切れる。蘇民将来とはスサノオノミコトに一夜の宿と食事を用意したことで厄災から逃れ得た人物で、これを祀るお祭りは全国に展開する。粽を買うことで、自らはそのようなホスピタリティに富んだ人物の子孫であると任じるのである。ホテルもホスピタルもホスピスもどれも同じ語源からなり、ホスピタリティの精神こそが社会の安寧に直結すると無言のうちに伝えながら祇園山鉾は巡行するのである。
 京都府のホームページには高次脳機能障害支援プランが実に適切にまとめられている。
http://www.pref.kyoto.jp/shogaishien/1311661912544.html 描かれた工程表を見れば心の中を山鉾が前に向けて巡行するような気がするのである。(2013年7月31日)


第19回 博多のクマゼミ
 博多に降り立ち、そこここでセミの鳴き声を聞くと、あの懐かしいクマゼミの鳴き声が主流である。シャーシャーと書けば良いのだろうか、所沢でミンミンゼミが主流であるのとは大違いだ。今年の日本列島はとにかく暑いが、わけても博多は暑い。この列島猛暑化で、クマゼミが横浜辺りにまで進出したと聞くので、やがてはセミの王者が晴れて天下を取るのかも知れない。
 そのクマゼミが博多の通りでしきりに鳴くにもかかわらず、街路樹を見上げてこれまで一度も姿を捉えることができない。東も西も共通のアブラゼミも見えないのである。いかなることかと脂汗を流しながら会議場まで東公園を通過してみることにした。東公園には木々が多く、セミの声も一段と高くなる。公園内に立つ亀山上皇と日蓮上人の巨像はいずれも北方を見据えていて、烈日を背景とするので逆光はなはだしく携帯で幾度かシャッターを切るも尊顔を拝する画像にはならなかった。
 博多は大宰府以来の大陸への窓口を継承し、常に文化の曙光の中にあって発展を続けてきた。もっとも金印は大宰府以前のことだったか。時には好ましからざる来訪者もあり、その代表格の元寇も博多にやってきた。そんなことで亀山上皇と日蓮上人がここにある。かつてこの日蓮上人像の横にある元寇資料館を訪れたことがある。近くの売店に声を掛けると扉を開け、電気と空調のスイッチを入れてくれるという恵まれた参観環境である。ここには1点だけ特筆すべき所蔵品があり、当時の元の兵士が身に着けた鎧で、社会科の教科書で見るあれである。説明が出色で、綿は厚くして十分に密になるように加工すると矢が通らない、そこで軽く機動性に富んだ鎧ができ、中世の欧州貴族が全金属製の鎧では身動きできなかったのと対照的であったとある。すばらしい。よって元は集団戦法を実現できたのだろう。
 暑さで通り過ぎるのが精一杯だった東公園でもとうとうセミの実物は見ることがなかった。まことに不思議なことである。それでもセミの鳴き声はやかましいほどである。この姿の見えない博多のセミを聞き始めて何年経つだろう。この季節に高次脳機能障害九州・沖縄ブロック会議が開催され、会議を重ねるに連れ、恐ろしいほどに充実した施策展開が実現したことは、これも特筆に値する。(2013年8月28日)

第20回 本郷通り東大前

 土曜日の夕方に学生街の居酒屋に入るなど、ありそうでないことだ。それも定食でも食べてみようというのだからもっとあり得ない。学生の姿を見かけない本郷通りの東大前で店に入って見れば先客は一人きりである。私と同じぐらいだろうか、初老の男がビールを飲みながら、しきりに亭主に話しかける。亭主も似たような年恰好である。この辺りにはとんかつ屋がないので、やれば十分流行るんだけどなぁと先客は亭主に同意を求める。他に客はいない。二人の会話を聞きながらの夕食となった。
 先客は、どこからだか分からないが私より少し早く東京に出てきたようだ。語る在東京個人史は少しもまとまりがないのだが、自活してきたことへの矜持はあちこちに顔をのぞかせる。歩んできた道の思い入れに相槌を打ちながらも今一つ乗れない亭主は東京出身かもしれない。
 聞き手に徹していた亭主が思わず訊く。郷里に行くことはあるかねとの問いに親父が死んだときには若かったから行ったな、お袋は出てくるときにはもういなかったし、あとは何だかなと勢いがなくなる。やや長い沈黙ののちに、再び商売の話が始まる。とめどもない話でいつの間にか食べる方に専念していたところ、話がカニに移ったところで再び聞き耳を立てた。ズワイガニは輸入物が安く入るのでうちでも少しは出すけどねと言う亭主に、突然先客の口調に熱がこもる。越前ガニが一番うまいんだよ。全然違う。何てったって越前ガニだよ。越前ガニの産地は越前そばとソースかつ丼の故郷でもあるが、それが続いて出ることはなかった。越前ガニの薀蓄がひと時過ぎたら先客は憑き物が落ちたように無口になった。
 何でも越前ガニには食べ方の作法があるようで、カニの爪を食べるときには固定しているハサミを折ったのちに可動式のハサミを抜くと、身全体がスポッと抜けるという。便利なのではない。金属製のハサミで甲羅を割ると味が落ち、カニにハサミは禁忌なのだという。その他素手で食べるための工夫が山ほどあるらしい。福井の人が、こよなく越前ガニを愛し、ソースかつ丼を楽しく語り、越前そばを食べながら県下の高次脳機能障害者支援について実直に取り組む様子が目に浮かんだ。(2013年9月17日)

第21回 浦賀水道
 品川から京浜急行本線に乗る。羽田空港に行く際に三崎口とか浦賀といったエキゾチックな行先を見ながらいつかは乗ってみたいと思っていた。品川も新幹線の駅ができてから高層ビルが立ち並ぶようになり、食堂の兄ちゃんに聞けば高級店開業を目指す連中は品川に移動しつつあるという。しかもリニア新幹線の出発地は品川駅であって東京駅ではない。所沢から一層遠くなる。信州・松本に行くのに甲府までリニアで、その後は特急あずさで行くようになるのかといろいろ思いを巡らすのだが、実際は遠い未来のことで若ければともかく自分には関係ないことに違いない。とまれハイカラで居心地の良い特急電車は品川を出発した。横浜を過ぎて途中に金沢文庫や金沢八景という由緒正しい名前の駅があり、山を隔てた向こうが鎌倉になると後で地図を見て知った。
 さて久里浜に着いた。海を挟んで向こうに房総半島の山並みが低く連なる。この海こそが浦賀水道であり、今でこそひっきりなしに商船が往来し、時には航空母艦や潜水艦が通過しても誰も驚かない。ところが幕末にはいきなり黒船がやって来て、てんやわんやの大騒ぎの後に、最初に錨を下ろした場所が久里浜であることはあまり広くは知られてないようだ。語るは魚屋の親父で、何でも今年の夏の異常な高温で海の魚がどこかへ行ってしまい、近海ものと呼ばれる魚を揃えるのに一苦労だとか。海の1℃は陸上の5℃にも6℃にも当たるんだ。考えてごらんよ、空気が1℃くらい違っても大したことはないけど、風呂で1℃違ったらぬるいか暑いかはともかくエラい違いだ。この猛暑で魚がみんな逃げちまうのも無理はない。今年は海の中で何℃も違うんだぜ。いっぺん台風が来てだ、海を、こう、上から下までかき混ぜないことにはラチが明かんのよ。というわけでシラスは全然取れなくて、恰好のお土産が見当たらない。
 久里浜には国立特別支援教育総合研究所があり、高次脳機能障害をもつ児童、生徒が学校に戻るために必要な行政上のノウハウをもっている。当該障害児童・生徒の中には普通学級に戻りたいという希望があることも承知しているが、いずれ学校の先生方に協力を仰がなければ医療や福祉だけではどちらも覚束ないのは目に見えている。研究機関というと物つくりの創意工夫をイメージし易いが、行政上の研究もまた役に立つのである。(2013年10月3日)


第22回 祇園太鼓

  芥川比呂志が出演した映画を見たのは「無法松の一生」をモノクロのテレビで放映したときの一回きりである。家でくつろぐ軍人として登場した比呂志を周囲の大人が「おっ若い」と言い、私は比呂志の顔に龍之介に似たところはないかと探していた。今ひとつの記憶は、松が打ち鳴らす太鼓を遠くに聞きながら商家の御隠居が懐かしいねぇ、まだあの太鼓を叩ける者がいるんだとつぶやくシーンである。そんなことを思い出したのは北九州空港からバスで小倉に入るところで主人公の名を付けた饅頭の看板を見たからである。しかし私はその小説を書いた人の名を思い出せない。官営八幡製鉄の社員だったろうか。
 かつて小倉には伝便(でんびん)というクーリエシステムがあり、ちりんちりんと鈴を鳴らしながら町を渡り歩き、手紙を託されればその足で届けるのだと「或る小倉日記伝」に書いてあった。松本清張の中では、伝便は雪が舞う、寒い、しかも夜に歩くような風景でなくてはならなかったはずである。森鴎外の小倉時代の日記が散逸したため、それを埋めようとする主人公の、松とは対照的な暗さが小倉のどこにあるのか私は知らない。たまさかの旅行者には知り得ないことなのだろう。知っているのは明るい旦過市場(たんがいちば)だけである。小倉にはモノレールがあるので、これに乗って市場に行く目当てはぬかみそ炊きを買うためで、これは青魚をぬかみそを出汁として炊いた郷土料理で、小倉名物といって良い。取り寄せはともかくとして、小倉でしか買えないこの名物を10年ぶりに買うはずだった。
 北九州国際会議場は小倉駅のすぐ北側で大小のホールがいくつもあるその名にふさわしい会議場である。ここで「第1回自動車運転再開とリハビリテーションに関する研究会」が今月開催され、主に高次脳機能障害と運転という観点で講演がもたれた。驚くなかれ、会議場として割り当てられた中ホールは満員立ち見となり、主催者の計らいで小ホール2つにそれぞれモニターを設置し急場をしのいだ。訊けば有料参加者は460名を数え、スタッフを含めれば全部で500名を超える大会議となった。高次脳機能障害をもつ者がどのようにしたら運転を継続できるのか、警察庁の指摘も踏まえたタイムリーで役に立つ話題であったので、参加者の大部分を占めた若いリハビリテーションスタッフのまたとない研修機会になったはずである。
 会議が終わるや飛行機の会社から電話が入り、機体整備が間に合わないため明日朝一番の便で帰ってくれという。朝ごはんも食べられない時間である。結局何も買わずに羽田に着いた。(2013年10月22日)


第23回 サンシュユ
 北国の冬は早い。盛岡は10月末でもう木々の葉は黄色や赤にすっかり変りはて、朝の流れる冷気に早々と年の瀬まで感じるほどだ。東北ブロック会議を開く会場の隣は南部氏の城跡であり、その中を通ってみた。巖手公園と書かれた石柱がどんと立っており、なるほど岩手は本来この字で書くのかと納得した。岩手大学のことをガンダイというのも今回教わった。
 公園内には石川啄木や新渡戸稲造の碑があり、それぞれの出身地がここであることを初めて知った。宮澤賢治のもあるのだが、こちらは名高すぎてあぁこの地の生まれかと感慨に浸るものがない。何といっても石川啄木には金田一京助である。この稀代の国語学者がなぜそこまで啄木を援助し続けたのか、土地の者ではないので知らないが、金田一京助編の国語辞典が山ほどあってもどれにも参画したことがなく、自分の名前が付くことで売れるんだったら良いではないか、第一、国語学者で食える者などいないのだと言っていたようなので、根っから親切だったのかもしれない。
 その南部の城跡に真っ赤なグミの実をびっしり付けた樹高4メートルほどの木が2本あった。木の脇には案内板が立てられ、サンシュユと名前がある。赤い実には薬効があり、中国伝来みたいなことが書いてあり、ほぅグミではないのかとしげしげと眺め入った。初めて見る木なので案内板を携帯で撮影して、樹木本体は撮影しなかったので、後でおかしなことをしたものだと思った。
 東北ブロック会議は盛況だった。県の真ん中を南北に新幹線が走り、そこからあばら骨のように左右に支線が拡がる鉄道網で支えられる、北海道に次いで二番目に大きな自治体を支援ネットワークで支えることは容易ではないのだが、何といってもこの地には昔から地域に密着した医大がある強みがある。地域に根差すということの見本みたいなものである。加えて個性豊かな、云わば巨人と呼べるような人がいたのが幸いした。
 ひとつ印象深いデータを見た。支援拠点機関の相談対象者のかなりの部分が働き盛りの男性であるという分析である。そもそも頭部外傷は男性に圧倒的に多いので、外傷が多ければ必然的にそのような結果につながるのであるが、果たしてそうだったろうか。高次脳機能障害に限らず日本のリハビリテーションの現場におけるジェンダーは課題たり得るだろうか。
 帰着してサンシュユを辞書で引いたら山茱萸と漢字が出ていた。訓読みすれば「やまぐみ」である。やっぱりグミだったではないか。でもグミというのは初夏には実がなっているような気がするのだが、良く分からない。(2013年11月21日)


第24回 モーツァルトはお好き?
 マダム・ドキールはフレデリック・ブレーメル先生の秘書だった。ブレーメル先生は除脳ネコの研究により、医学史にその名を遺した。所長の代替わりで筆頭の座から滑り落ちたドキール夫人はひたすらブレーメル先生を懐かしがり、その思い出を支えに生きていた。そんな彼女が私の部屋を訪れたのは、私が使っている部屋が、数年前にブレーメル先生が90歳で亡くなるまで居室だったことを告げるためだった。
 ある日ドイツのウルムからコルンヒューバ先生がやってきた。先生はベライツシャフトポテンシャルの発見者である。その私の部屋を訪れたのは日本人がいると聞いたからだった。秋元波留夫博士を知っているか、私の盟友である。まだネットなどなく、朝日新聞の欧州版が翌年に発行され、欧州向け航空便はアンカレジかモスクワを経由する必要があった。私は松沢病院に宛てて手紙を書いた。
 後日談がある。この時一旦つながった秋元・コルンヒューバ間の連絡はいつの間にか途絶えていた。さらに20年を経て、国リハの外部評価委員のY先生の口から秋元先生の名前が出たことで、こんな話がブリュッセルであったと話したら、秋元先生御自身からメールが来て、現在の連絡先を教えて欲しいとの内容だった。百歳を超えた方とのメールのやり取りはこの時を措いて他にない。実はコルンヒューバ先生の息子は親にドそっくりの風貌で、名前を確認する必要もないほどだ。ライプチッヒで会ってその旨を伝え、再び秋元・コルンヒューバ会談が、今度はネット上で実現した。
 家族を挙げてドキール夫人の家を訪ねた。タルトレット・パリジャンを勧めながら静かに語る。気持ちが沈むとねモザールを聞くの。心が落ち着いてだんだん元気が出るわ。モザールの何?ピアノソナタなら何でもいいわ。白い肌に加えて、この人の瞳はおそろしくブルーなのである。
 前々回の小倉の話では村田英雄の無法松が抜けていて残念だったと聞いた。これは心に染み入るということだろうか。歌によって元気が出るのなら、というのが音楽療法の根底にあると思われるし、中村美律子が歌う河内おとこ節などは元気の出る名曲といえるかも知れない。大阪という土地に深く根差したこの歌が日本人に与える元気には、日本ではモーツァルトも敵わない。しかもその元気が大阪の粛々とした、そして精緻な事業展開に加わっているとしたらと合点がいくのである。(2013年12月5日)


第25回 霏々として雪は降る
 機内に案内される前に、積雪のために引返すことがありますと幾度も念を押された。機体が目的地上空に差し掛かったと思しきころ、雪雲の中を大きく揺れながら滑走路除雪のため上空で待機するとのアナウンスを聞いた。秋田の本領発揮のような雪景色を35分遅れで見ることになった。雪は霏々として降っていた。
 日本海、鰰、なまはげといった言葉が頭の中を駆け巡るのだが、菅江真澄を忘れなかったのは自分を褒めてやっても良い。江戸後期に現在の愛知県豊橋市牟呂町に生まれたこの博物学者は、さすらうように東北にやってきて弘前藩でお抱えになった後に秋田藩お抱えになった。藩主佐竹義和の依頼で出羽六郡の地誌を著すほか、比類なき知識を基にしてその土地土地の風俗習慣について多くの著作をなし、その原本は今日秋田県に残され国の重要文化財の指定を受けている。平凡社が発行している東洋文庫に菅江真澄遊覧記全5巻と菅江真澄随筆集がある。この牟呂町というとても小さな漁村が菅江が没した後40年を経て幕末の「ええじゃないか」の発端の地となるわけだが、取り立てて関係のあることには思えない。そんなことを考えながら空港ビルでほんのわずかな間待っている間も雪は霏々として降り、なんだか雪が深くなったような気がした。
 講演会場まで行く車の運転手にチェーンを巻かないんですねと言って笑われた。山の方へ行くとまだ巻く人がいますけどねと言われて、マタギがシロビレを持ってクマと相対峙する姿を思い浮かべた。カンジキも履いていなければならない。それなのにだ、どこの地方に行っても同じことではありますが、ここでも人はNHKテレビのニュースのように話しているのである。それを言うと、「そいだばおめがだによ、まんず今日だば温泉で楽しんでってけれ~」こんなんでいいですかと笑われた。初めて秋田に来た気がした。
 主催者に訊かれた。支援拠点機関の集計データ一覧を見ると、秋田の相談件数は際立って少ないのですが、どうしてでしょうか。思わずどうしてだろうと唸った後で、どうして自分が唸らなければならないだろうと思った。それでも決して不愉快でないのが秋田の不思議なところである。どうも秋田県民は限りなく人がいいのかも知れない。3時間の後に再び空港に向かったが、明らかに積雪は増えていて50cmぐらいになっている。それでも雪は霏々として降っている。除雪のために出発遅延ということで1時間以上買い物に費やすことができ、豊かな産物がこの地にあることを確認した。羽田まで48分のフライトであった。(2013年12月26日)



第26回 神戸市八本松公園―そして神戸 (1)
 新大阪駅から姫路方面に向かう列車に乗れば、神戸駅までが東海道本線であり、その先は山陽本線になる。JRになってからこれらがどのような意味をもつかは知らぬ。神戸駅を過ぎて10分もすれば須磨駅に着く。降り立って姫路に向かう行く先を見れば断崖絶壁が海に迫っていて、海辺の隙間のようなわずかな土地に鉄路は吸い込まれ、そのまま見えなくなる。
 この要害の地が一の谷の古戦場であり、九郎義経が鵯越の逆落としで、この崖を平家目掛けて真っ逆さまに降ったのである。その折、畠山重忠は馬を不憫に思うあまりに担いでこの急斜面を降りたという。在所の埼玉・深谷の畠山郷にある銅像によれば、馬の両の前脚を背後から肩に掛けさせ、自ら先導する形で降ったことになる。いずれにしても坂東武者の面目躍如たること熊谷直実、那須余一に並ぶのである。いずれも在所を姓とするところは尾張中島村の出の者が中島を名乗るようなものである。
 駅からその断崖の方向に向けて歩みを進める。あの時は右側を並走する山陽電鉄の鉄路の上を電車が脱線して傾いたまま放置されていた。震災から40日経ってからの神戸であった。そしてそれから5年後に再びここに降り立ったのである。海岸を並走する自動車道をほんの数分を歩いたところで海岸方向に向けて直角に曲がり、さらに歩みを進めるとあちこちに住宅をなくした空き地が歯抜けのように点在することに気付く。今一度左に折れていくらかを進むとわずかな緑地があり、そこが八本松公園である。敷地の隅にいくらかの廃材が置かれ、あの青いビニールシートが掛けられていた。
 阪神・淡路大震災は1995年(平成7年)1月17日に発生した。地震から1週間後に出発した先遣隊は岡山まで飛行機で飛び、そこから東に進路を取った。40日後ではその必要はなくなってはいたが、JRで神戸に着くまでに住吉駅と灘駅の間はなおバスが代行して乗客を運んでいた。住吉駅でバス停まで歩く間に異様な空気をもう十分に味わうことになった。駅を取り囲むビルというビルはどれも傾き、多くは2階とか3階部分が完全に潰れて、本来の階数より1階分だけ減っていた。その先にある本住吉神社は本殿が今にも崩れそうに傾きながら辛うじて立っている以外は鳥居も灯篭も、その他の建物もすべてが崩れ去っていた。
 それから5年後の本住吉神社はきれいに再建されていて、ほっとするものがあった。宮司によれば当社は幸いにしてこのように元通りにすることができたが、震災前のこの辺りの神社仏閣はちょっとした建替えブームがあって、氏子檀家にもう一度寄進をお願いすることができずにそのままになっているところも多いとのことだった。
 再び震災直後の神戸に戻ろう。灘から電車に乗り、三の宮に着けば駅前の異様な光景も報道の通りであり、そごうデパートだろうか、大きなビルがぐしゃっと潰れていた。日没寸前なのに建物に灯が入らないのが一層不気味な雰囲気を醸し出していた。さらに電車は西に向けて進み、神戸を知らない身には神戸は三の宮を過ぎれば急速に街並みが減るのだと思えるほどに周辺は暗くなっていた。翌日に夜が明けてみて、はじめて街並みが少ないのではなく、すべてが壊滅したあとだったことに気付くのである。(2014年1月7日)


第27回 神戸市八本松公園―そして神戸 (2)
 神戸市は大きい。宿泊場所と定めた西区は明石よりずっと西に位置する。毎日須磨区と長田区を巡回するために、支援車両と言うことで開放された自動車道を15分ほど走って向かうその道中は、自動車道が地震のために波打っていることから、スピードを出すと時々車両が時々ふっと浮くのがかなり気持ちが悪い。
 JR鷹取の駅前から山側を見れば、辺り一面が焼け野が原で何もなく、昨夕の暗闇はこれだとようやく気が付いた。9.11でニューヨーク貿易センターが焼け落ちる以前に、鉄筋コンクリートのビルも燃えて灰燼に帰すことをここで学んだのである。神戸の空襲とこの震災の両方を経験したという年寄りがいて、この震災の方がえげつないと話すのは、決してこちらが記憶に新しいからばかりではなかろうと思えた。震災から40日後といえども毎日のように新たに遺体が見つかったという話を聞いた。その一方で、震災への反省も行く先々で聞くことになったのは、それなりの時間の経過所以である。
 学生が多く亡くなっていたことはすでに良く知られていて、大部分が圧死だったことから、学生向けの安アパートが最も崩れ易い建築物であったことが語られた。そのようにして未来を閉ざされた若者たちの御霊は虚空のどこを彷徨っているか、そして両親、兄弟姉妹、友人もどのような思いを抱えて日々を暮しているか、最も触れ難い一点である。
 どのような激震地にあっても、火事さえなければ、倒壊を免れた建物はあり、それは実物を見れば一目瞭然であり、学生向け安アパートの逆であるといえば分かり易い。人々の口の端に上る反省の最たるものは建築にあり、「軽量鉄骨、家具造り付け」は繰り返し聞くことになった。軽量鉄骨はいうまでもなく、家具造り付けは大きな揺れの瞬間に宙を舞った冷蔵庫やテレビと壁との間に人が挟まれて亡くなった事例が多発したことに由来する。
 神戸市立西市民病院は中途の1階がぐしゃっと潰れ、落ちてきた天井すなわち直上階の床がたまたまベッド柵に当たり、そのままベッドが天井を支える形になり患者の中で誰も傷ついた人が出なかったと神戸市の職員から聞いた。この職員は私たちに向かって「東京に一朝、事が起きた時には私ら神戸が真っ先に駆け付けさせてもらいます」と謝意を述べたが、まだその機会は訪れていない。
 あれからまだ20年にならないが、当時はまだ携帯電話がなく、自衛隊が使うような大きなトランシーバーの形をした移動電話を担いで、定点を一日巡回していた。そのひとつが八本松公園で、5か6家族がテント生活をしていたように思う。犬も一匹いて、昼ごはんの残りを投げてやったところ横に並べた箱と箱の隙間に入ってしまったので、取り出してやろうとしたところ、恐ろしい勢いで吠え立てられ喰いつかれそうになった。最後にそこを訪れたときには3月をいくらか過ぎていた。たき火に石油缶がかかっていて煮炊きに使っているのだろうか、中身が分からないので覗き込もうとして呼び止められた。もう浜にイカナゴの幼魚が押し寄せてきたので釘煮を作ってみた、良かったら持って行って食べて欲しいとひと包みを渡された。その夜の夕食から数えて3食の飯の友になった。「夜と霧」ではないが、人情の在り処とそれが顕現するシチュアシオンは洋の東西もなければ、時代による違いもなく、等しく誰にもそのような機会は訪れ得る。
 それでも神戸は復興を遂げる。兵庫県も神戸市も頑張り、何よりも住民の自助努力も大変なものだったと想像するのだが、それも健全な心身が前提である。高次脳機能障害支援拠点は神戸市にあり、それは当然のことながら、兵庫県は日本海にも面していて、山陰本線を京都から城崎方面に向かう途中で分水嶺を過ぎると神戸は遠いと思うのである。(2014年1月14日)


第28回 1938年2月冬のイタリー
 男は3か月前から習い始めたイタリー語を実際に使ってみようと、休暇を取って任地のローマからミラノにやってきた。2月のミラノの気温を東京と同じぐらいだろうかと思いつつ、一渡り駅前を歩いたところで写真館が目に付いたので記念にちょうど良いと入ることにした。亭主は極めて愛想が良く、色々と話しかけるが何を言っているのか分からないし、こちらが要求することもどこまで通じているか怪しいものである。大掛かりで時代がかった部屋のしつらえと日本では見たこともないような大きな箱型の、カメラというよりは写真機と呼ぶにふさわしい装置を用いて、マグネシウムを炊くこと2度で撮影は終わった。法外な値段の提示を受け入れて、出来上がりの送り先を記したところで亭主は急に無口になり、代金のいくらかを返してよこした。
 イタリーの風俗は聞いていたよりずっとおとなしく、駅前に屯する乞食もいなければ、スリに出会うこともないのはミラノだけでなく、ローマも同じであった。前任地のベルリンを出て早くも3月が経ち、その間にまず訪れたのがバルト3国で、そのままレニングラードに入ろうとしてソ連に入国拒否された。それではと船で英国に向かったところで海関で取り調べを6時間にわたって受け、とことん嫌気が差して長居は無用とロンドンに1泊しただけで、イタリーに船で向かった。まずあり得ないアドルフ・ヒトラーとの握手で、強く印象に残った彼の手の暖かさがイタリーに着くまでの旅程で経験したことを凌駕していた。
 ローマに着くと同時に出迎えの同僚が、もう何日も前からお客さんがお待ちかねだと笑うが、誰だという問いには答えない。翌朝すぐに、出勤と同時にそれは知れた。2人の20代前半のドイツ人姉妹が待ち受けていて、知るも知らぬも3月前までベルリンで下宿していた先の娘たちである。しっかりと着込んでいるもののこの冬の寒さであり、建物に入れてやりたい気はするが公館である。自分たちが実はユダヤ人であると語り、イタリーに脱出して来たので、次の国に向けて出国するためのビザを発給して欲しいと語ったのである。そのようなことは露ほども知らなかった。
 それは自分の一存でどうこうできるものではなく、しかるべき手続きを踏んで、その後に判断される性質のものであることを繰り返し説明したが、容易に引き下がらないのはもっともなことである。どれだけ時間を費やしたかは記憶にはないが、最後はたまたま、まとまった額の金子を持ち合わせていたので、それをすべて渡して振り切るように公館に入ったところで衛視が後を遮った。
 止むを得ないことといえども心残りの出来事で、一生を通じて一つ話として繰り返された。これを語りつつ、門外漢であるがと前置きしながら高次脳機能障害というのは良い仕事にせねばならぬと呟いた。(2014年1月28日更新)


第29回 アナダコ
 東海ブロック会議に出席するために四日市に向かう。東京から新幹線で赴き、名古屋駅での乗り換えの距離を考えると近鉄よりはJRの方が便利かと思いつつ、両方の時刻表と駅から会場までの距離を確かめてのち、それでも決心に何日もかかった。地図で見ると長さおよそ1キロのロータリーのある広小路の両端に駅はあり、会場は3分7分で近鉄駅に近いように見える。当日雨が降ろうとは、しかも天気予報は雨を伝えているのに傘を忘れようとは思いもせずにJR四日市駅に降り立った。
 午前中でブロック会議は終わり、雨が止んだところで昼休みを使って近鉄駅を覗いてみた。駅舎はそのまま近鉄デパートになっていて、1階の食品売り場でアナダコなる生のタコを中くらいのパックに何匹か詰めて売っていた。マダコよりいくらか小ぶりで、知らないゆえに何となく心誘われるものがあったが、淡路産という記載があったので、三重に行ったのではないのかと家族に笑われそうな気がして止してしまった。
 午後のシンポジウムは記憶に残るものとなった。タイトルは「社会的行動障害へのアプローチ」であり、静岡と愛知の施設職員による発表とパネルディスカッションであった。施設職員が直面する現場の実態とその対処の現実が実に丁寧に語られ、それは聞く者がその現場に居合わせたかのように思うほどリアリティに富んでいた。得心するとはこのようなことである。しかも、お二方とも謙遜して、答えのない話かも知れないということと、間違っているかも知れないと述べてそれぞれの話を締めくくった。しかし謙遜でも何でもなく、自然科学としての医学は答えがひとつであっても良いのかも知れないが、福祉の世界では答えがひとつであろうはずがなく、それは地域によっても時代によっても異なり得るものであろう。したがってお二方の末尾のつぶやきに議論の成熟を聞いたのであり、これが心に残った。高次脳機能障害に関連する事業の来し方をしみじみと振り返ったのは自分だけだったろうか。
 往復切符を買っていたので帰りもJR四日市駅を使ったが、売店がないのでおみやげを買うことはできなかった。名古屋駅でホームに着いたら目の前にのぞみ号が入ってきて、これに飛び乗ったらきしめんを食べることもなかった。今日は良い話を聞いたからと思ううちにまどろみ、気が付けば新横浜だった。
 帰宅してネットでアナダコを調べたら、テナガダコとも呼ぶそうで、料理としての紹介を四日市の料亭が紹介していたので、だったら買えば良かったと思ったが後の祭りであった。(2014年2月12日)


第30回 厚生省の厚生
 以下はある年の国リハ学院の卒業式で、卒業生に語って聞かせたことの一部である。
 さて中国古典の書経に:「正徳利用、厚生惟和(徳を正しうして用を利し、生を厚うしてこれを和す)」とあります。正徳利用、厚生惟和の厚生をとって、今日の厚生労働省の名前にしました。厚生労働省の厚という字は、この漢字の下にひらがなで「か」とつけ、これで「ゆたか」と読みます。
 大凡の意味は、民の徳を正し、物資の流通と使用を便利にし、民の生活を厚(ゆた)かにし、これを調和する。これによって国が治まるということを謳っています。民の徳を正しというのは道徳でしょうか。物資の流通と使用を便利にするということは経済と科学技術でしょう。もうひとつ生活を豊かにするということはどのようなことでしょうか。中にはわざわざ取り上げなくとも、経済と科学技術の進歩で十分に国は治まるのではないかという人もいるでしょう。
 書経が成立したのがおよそ紀元前500年のことです。今から2500年前です。そのころの先端技術といえば、石から金属を取り出して鏡や硬貨を作ることでした。車輪も導入され、人や物を運ぶ車ができました。それが今日小惑星探査機「はやぶさ」が、小惑星イトカワへ行って、石を採って帰ってくるようになるまで、実に、一直線に進歩してきました。それでも2500年前の古典が今なお印刷され本となって売られているのはどうしてでしょうか。
 ヒトという動物の学名をホモサピエンスサピエンスと言います。ホモサピエンスとは知恵のある人ぐらいの意味になります。このヒトという動物にとって科学技術というものは、誰にとってもおそらく本能的な欲求のひとつで、科学技術の進歩はすべての人によって自然に推し進められて行きます。いや自分は科学者ではないと考える人もいましょう。しかし、科学者ではない人もきれいに映るテレビを欲しい。海外へ短時間で行きたい。季節でもないのにスイカを食べたい。そういったことでユーザーとして科学技術を進歩させていることに変わりはありません。欲望とも言えるような欲求にしたがって、科学技術はどんどん進歩していきます。
 諸君がこれから専門職として働くに当たっては、この科学技術の進歩から離れて自らのスキルを高めることはできません。一方で、その科学技術を使いながら、自分が働くことによって何をこの社会にもたらすのか、それは人々の生活をゆたかにすることにつながるのか、これを考えることなくして諸君の職業はなりたちません。
 それではこの人々の生活をゆたかにするということは具体的にどのようなことを指し示すか。何をすれば良いのか疑問に思うのは当然です。実は不思議なくらいに具体的な方法は示されていません。社会保障、福祉、年金といった国の仕組みや予算の使い方については随分と整備され、一定の議論ができる社会になりましたが、それでも価値観は多様です。科学技術が常に一方向に進み、決して逆戻りしないことからすれば、この人々がゆたかに生活するということの具体的な部分では信じられないことに価値観が時計の振り子のように揺れ動いたり、ある日突然以前の方が良かったということも起こり得ます。そして諸君の一生の間ですら、変わってくるだろうと思います。そのように揺れ動くものには目もくれないで、科学技術のみを信奉していれば良いのであれば、書経のような書物は今日まで生き残ってはいません。それだけでは足りないことばかりでなく、絶対指針のようなものを欠いているからこそ、諸君は自分の頭でこれを考えなければなりません。別段書経にたよる必要はありません。厚生労働省の名前を見るたびに、生活を豊かにするということはどのようなことだろうか、自らがなしていることはそのどこに位置付けられるだろうかと考えれば、職業人生を過たないだけでなく、自分自身にとって納得のいく、満足感に満ちた人生を送ることができるはずだと考えます。
 さあ、諸君は本日から一本立ちです。自分で考える毎日の始まりです。自分で考えて初めてその業界でのリーダーになり得ること、諸君にはいずれもその資質があることを伝えて餞とします。諸君の輝かしい未来を教官、そして職員一同とともに楽しみに見ています。
 卒業おめでとう。(2014年3月11日)


第31回 加賀の求肥
 加賀の求肥を食べる機会に恵まれた。意匠といい、味といい、外連味たっぷりの求肥は驚くにたっぷりで、満足感もたっぷりであった。外連味は歌舞伎を除けばこれは無いことが良いとされるのが通例で、いつそうなったかは分からない。しかしながらこの求肥を食べてみれば、嫌味のない外連がどのようなものか、さすがに前田百万石は違うなあとの食後感をもつことで少しは分かったような気になった。テレビの軍師官兵衛で洋装の信長が出てくると、加賀の外連の発端はこの人なのかと思うのだが、きっと大きく外れてはいないだろう。九谷焼も有田焼を発端としつつ、そのような加賀の文化にぴったりはまって今日のような図柄になったのだろうと納得する。
 そのように信長や秀吉が加賀に繰り出し、前田が引き継いだことで金沢のブランドは確定したようなものである。一方、求肥と一緒に呑んだ酒が川の名前で、謙信が信長を打ち破った戦いの現場であることから、それはそれで加賀の人たちの記憶に残っているからかどうか、本当のところは分からずじまいであった。そのようなことを思うのは、富山の人が越中は秀吉軍を退けたので、その分加賀とは異なる文化になっているんですよと教えられたからに他ならない。いずれにしても川はそこで生まれ育った人の心の中に深く結びついていて、小説のタイトルになったりもするし、大相撲の四股名になったりもする。
 今ひとつ、金沢はいしるを語らずして食の話にはならないらしく、吉田健一が礼賛するのでそれ以上は何も触れる必要はなく、ただ、いしるはきっと能登だろうと思い、ここでようやく石川は加賀と能登からなっていると頭の中だけで想像することになる。しばしば経験することが、これがここの県民性ですと高次脳機能障害支援の取り組みの違いの説明を受けることで、実のところは県民性なるものの理解はそこに住むことなくしてはとても難しく、同級生をもって県民の代表とするなど、葦の髄から天井を覗くことに極まる話で、天才信長をもって尾張を代表とすることなど誰も思いはしまい。
 とすれば、加賀と能登に違いはあるのかないのか、分からないことづくめではあるが、その土地土地の風土に適したリハビリテーションがあり、きっとそのようになっているだろうと思いながら求肥から始まる心の旅は終点になった。(2014年4月8日)
                                                                                                                        
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