センター長 過去のコラム3(第32回~第40回)

第32回 キバナイペー
 東京を出るときは気温が10度ぐらいなもので当然のように冬支度で出かけようとしたところで、鹿児島は暖かいに違いないと思い直し薄手のコートにした。2月にタイに出かけるときに、どの服装で成田まで行こうかと考えるほどのことではない。機内でふと鹿児島から北に東京へ向かうのと、南に台北へ向かうのとどちらが遠いのだろうと思い立ち、機内誌で確認したら東京の方が近かった。午後に着いた鹿児島市内は暖かくてほっとした。
 鹿児島大学の鶴陵会館は医学部創立 50周年を記念する立派なホールで、多くの同窓生から浄財を集めて建てたと聞いた。片や工学部の方はたった一人の寄付により、したがって冠名の建物になっているとも聞いた。鶴陵会館はとても気持ちの良い建物で、特にホールの2階から南に突き出るように作られたゲストルームはガラス張りで明るく、巨大なサンルームの観すらある。何分にも九州は日暮れが遅いのである。
 日暮れが早かったり、日の出が遅かったりは緯度と絡めて語られるが、北欧でもあるまいに、国内ではこれはもっぱら経度の話である。プロ野球のテレビ中継では、こちらがとっぷりと暮れているのに福岡ドームはようやくナイターの照明が点灯したばかりで、青空がまだ覗いていることがある。
 そして何よりもこのゲストルームに入るや懐かしさが込み上げてきて、何年振りかで入るこの部屋に懐旧の念をもつのは前回の印象が良かったからに他ならない。本当のことを言えば、ルーチンに通う場所はともかくとして、滅多に訪れることのないところに再度訪れることは厭われる。二度行けば、二度目に沸いた懐かしさとともにせっかくの一度目の記憶は必ず失われる。人とも繰り返し会うか、一度きりが良いのである。
 ゲストルームに続く回廊はそのまま展示室になっていて、幕末に日本にやって来て鹿児島医学校長を務めたウィリアム・ウィリスの顕彰とフィラリア症との闘いを説明するパネルが目を惹く。一巡りして再びゲストルームに戻り、手荷物を取りまとめ、いざ講演会場に降りようとするときに、今度は心の中で井伏鱒二が「さよならだけが人生だ」とつぶやいた。
 金曜の夜は若い専門職であふれかえっていた。そのように見えただけで実は大御所もいるし、大学の後輩がポスターを見てやって来ましたと後になって告げられたりで実に色々な人が居たようだが、やはり若いセラピストたちの存在は目立った。この人たちがこの国の高次脳機能障害者支援を支えていることは論を俟たない。
 翌朝、空港に向かうバスの中からコブシぐらいの大きさの黄色い花をつけた、これもコブシぐらいの高さの木を見た。庭木としてあちこちで見かけるので鹿児島ではコブシの花が黄色いのかと不思議に思った。帰宅して、鹿児島・黄色の花と入力して検索したらキバナイペーが出てきて、ブラジルの国花だそうな。南国に相応しい樹木である。(2014年4月28日)

第33回 端午の節句
 今年は珍しく端午の節句と立夏が重なった。と思ったら大間違いで、珍しくもなんともなく、5月5日が立夏であることの方が普通であって6日がぐっと少ないのだそうだ。自分の思い込みも理由がないわけではなく、子供のころは大概6日であったので、はしなくも年取ったことを披露することになった。さらに何十年か過ぎると6日の立夏は完璧になくなるらしい。
 このお節句は菖蒲湯に尽きる。ちまき、柏餅、鯉のぼり等々このお節句にまつわる品々、行事は少なくない。どれも大事なのだが、菖蒲湯がだんとつに良い、というか欠くことができない。東京でも地方でも、スーパーに行けば何日も前からショウブをたくさん売っているので、全国では相当の出荷量となるはずで、当然菖蒲湯につかる人も相当な数に上ると思われる。しかし何日も前から売り出す理由が分からないのだが、連休で出かける前に菖蒲湯をしておこうかということだろうか。いや分からない。
 ショウブの香り、湯船の中で根元のやや白く、太くなっているところを折ると拡がる香りはこの世の最高のものである。「清浄」という漢字にぴったりの香りであり、一家を清めること請け合いである。昼風呂なら一層のこと、この感慨が強くなるかも知れない。ひょっとしたら遠い昔に母はこの日だけ昼風呂にしていたかも知れない。実のところ、このショウブの香りが芳香族化合物に含まれるかどうかさえ知らないが、そのようなことはどうでも良く、大事なのはこの香りが邪気を断ち、尚武の心意気を養うことである。これこそがショウブの本質だと思われる。
 またショウブは葉の形が勝れて良い。この青々とした切っ先が示すところは立夏を起点とする真夏の方向であり、灼熱の季節に向けて人をきりっとした気分にすることは香りに劣らない。そのように古人がもたらした習俗は、連綿と21世紀に伝わり、今日なお盛んであることはスーパーの風景で見た通りである。
 葉を細く割いて指の間に挟めば草笛となり、鋭い音を立てる。ついこの間まで風呂場からその音がして誰か遊んでいるなと思ったものだが、いつの間にか静かな菖蒲湯になった。その次の世代が草笛を面白がるような年齢になれば、自分が父親に習い、そして教えたように、きっと教えるに違いなく、そうして22世紀ぐらいまでは続いていくに違いない。多分。
 頭部外傷の後遺症として嗅覚脱失は少なからず見かける。難治性であり、ショウブの香りに再び接することができないことも多いのだが、季節の到来を知り、香りの記憶を喚起することで邪気が払われれば良いと思う。(2014年5月13日)


第34回 魂と魄
 夏の甲子園の地方予選は沖縄から始まる。6月のうちにすでに梅雨明けを迎え、ホテルの隣の野球場は球児の掛け声でかまびすしい。その時は沖縄戦終了から50年ということで、テレビは1フィート運動で購入した米軍が撮った映像を終日流していた。
 沖縄本島の南端は広々とした畑地があり、サトウキビやら野菜が真夏の日を浴びていた。帽子も被らず、ペットボトルも持たずに畑地の方へするすると近付いて行ったのは、そこにお墓が見えたからである。あちこちに点在するお墓はひとつひとつが家のような存在で、近付けば車が何台か収容できそうなくらいに大きくて、立派である。屋根も壁も柔らかそうな灰色の石でできていて、正面には人が立って入ることができるほどの玄関があり、木の扉で塞がれている。
 この世からあの世への連続した回廊がこのお墓を起点にして始まる。そのゆるぎない威厳はおどろおどろしい、興味本位の話を遠ざけ、memento moriなど入る隙間もなく、あの世に対する健康で確かな気持ちのもちようへと人をいざなう。
 三回忌が一番大事である。数えなので三回忌は満2年の経過となり、埋葬した結果すべてが白骨になり、これを取り出してお祀りすることに意義がある。全部は多すぎるので頭蓋骨だけを棚に載せていたが、それも数が集まると大変場所の要ることなので、位牌で代わりにするようになったと、2千年前の儒教のことを加地先生から習った。
 何百年かあるいは千年の時を超えて、この世とあの世はそのようなものであると示すに足る沖縄の墓である。それを文化とか伝統とかいう軽々な言葉でいうのは憚られるが、その佇まいの確かさと正しさは沖縄で見た何よりも心を打った。
 かつて沖縄に軽便鉄道があったのかもしれないが、久しく交通手段は車のみに依存し、モノレールが開通した後にあっても、東京のような大都会とは異なるモータリゼーションを地で行く地域のひとつである。交通事故の負傷者も当然相応に発生するわけで、沖縄県の方々が高次脳機能障害者支援に熱心なのも実需に基づく点があるかもしれない。そんなわけで沖縄に行ったところ、出迎えてくれた方が会場に向かうまでの車中で、路傍の墓所を見やりながら、自分もお墓を作ったんですよと語る。やっぱりお墓は大事だと思うんです、とも付け加えた。訊けば同じ年齢である。
 どのような形のお墓ですかとも訊かず、2年後はどうするのかとも訊かずに終わってしまった。あの巨大なお墓ではないような気もしたし、あの巨大なお墓はそのうちにそれを作る技術が失われてしまうような気がして訊かなかったのかもしれない。いや作る技術ばかりではなく。(2014年6月3日)

                                                                                                               

第35回 梅雨入り前後のことども
 水鉢に移したオタマジャクシに手足が生えて、いつのことかと思いつつ巣立ちの日を待っていたら、実に運良くその現場に出くわした。カエルになってオタマジャクシの時より小さくなり、せいぜい小指の爪の半分ぐらいなものだ。それが鉢の周りに跳び下りて、乾いた地面を土まみれになりながら這って行く。どこへ行くのか知らないが、時々はわずかな起伏を登りかねて転げ落ち、ははぁこれが土まみれの理由かと笑えるのである。
 さてどこまで行くのか、どこに向けて歩いていくのか知らないが、晴れた朝はすでに日中の炎天を予想させ、居心地の良かった水中を出てどうしようと言うのだ。全滅するだろうと思いながら見送った。ところが翌日雨がざんざん降りに降って、梅雨入り宣言があった。巣立ったカエルたちを見ることはそれきりになってしまったが、そこまで見込んで鉢から出たとすれば、案外元気にしているのかも知れない。
 梅雨入りから2日目に、池の水面から顔を出した水草にヤゴが這い上がってきた。冬の間に何匹も水底にじっといるのを捕まえては魚がいない鉢に移してきたが、まだ残っていた。メダカやオタマジャクシの天敵で、獰猛なことこの上なく、あっという間に平らげてしまうのである。しかしいよいよ羽化であり、こうなれば応援団である。翌日になり、大きなトンボがヤゴの抜け殻と同じ茎の上につかまり、翅は閉じたまま土砂降りに近い雨の中をじっとしているのを確認した。
 それから1日経っても2日経っても飛び立つ気配がない。翅は立派に拡げ、向きは変えるので死んではいない。驚かしたくはなかったが近くに寄って観察した。4枚の翅のいずれもが、先端だけが丸まっていて、これはどうしたことか、これではスイスイと飛ぶわけにも行くまい。相変わらず雨は降り続ける。どうしたものかと思ったところで何ができるわけでもない。3日立ったところで池の水面に翅が四散していた。観察者は私ばかりではなかったのは、当然といえば当然のことである。
 池にはカルガモも春のうちにやってきて、今年は14羽の雛が孵った。ただそう数えた人がいただけで、ついぞ見てはいない。その人が言うには梅雨が明ける前に隣の医大に向かって道路を渡るのが常である。ならば今年は14羽の雛を連れた大行列が見られると心弾む思いがし、その日を待ちわびた。
 雨が降りしきる池は静かである。気配というものがない。再びその人に問うてみたところ、タヌキが出ていたけれどカラスのような気がしますねと答えが返ってきた。屋外にある以上はビオトープで、小なりと言えども自然の厳しさが詰まっていると、モノの本に書いてあったことを今更ながらに思い出す。
 そんな梅雨入りとともに日本リハビリテーション医学会学術大会が名古屋で始まり、高次脳機能障害のセッションは賑やかだった。何にも増して心に響くものがあったのは、この支援普及事業に携わった人たちの発表では、事例の帰結が社会生活の中でどうであったかということに必ず触れ、それが不明であれば、残念ながらと前置きをつけてきちんとそのように述べていたことである。病院を退院した時で終わりにしない物ごとの捉えように違いを見た。一朝一夕のことではないと来し方を顧みた。(2014年6月25日)



第36回 5つの銅貨
 アメリカ南部、ルイ王朝の時代にフランスの植民地になったので州の名前はルイジアナ、州都はオルレアン公の名前を冠してニューオーリンズ、そこにはナポレオン縁の女性デジレの名前を冠したストリートがある。いつの間にかデジレを英語風に発音するようになり、デザイアとなったところでそこを走るデジレと名札を付けた路面電車は「欲望という名の電車」になった。
 フレンチクォーターは旧市街で、手の込んだアイアンワークに飾られたバルコニーをもつ建物が軒を連ね、まことにコロニアルと呼ぶに相応しい旅情を誘う街並みとなっている。夏が過ぎ、気温こそまだ高いその日は良く晴れ渡りはしたものの、観光客の出歩く数がシーズンならこんなものではないだろうと思うほど昼下がりの街路は静かだった。大道芸人も半ば手持ちぶさたで、こんな日が長く続かないことを願ったにちがいない。
 それでも一通りのプログラムは決められた通りにしない訳にはいかず、フレンチクォーターの只中で十字路の一角をわずか6人の吹奏楽隊が陣取り、まさに観光客向けにディキシーランドジャズのスタンダードナンバーを演奏し始めた。音楽に釣られて少しずつ人が集まって来たので、みんな屋内でコーラでも飲みながら待っていたのだろう。国内からと思われる年配の夫婦者が多く、一組だけいた20代後半と見えた若い夫婦はともにリュックを負い、手をつないで立っていたが、二人のその自信なさげな風貌ゆえに却って目を惹いた。
 ホコテンではなさそうで道路には駐車中の車も見えるが、楽隊はまさにマーチングバンドになり、「聖者の行進」を皮切りにそろりと車道に踏み出した。観客は30名は超えただろうか、決して多くはないその中から楽員の数をやや上回るぐらいの客が楽隊について歩き出した。極め付きは楽隊のすぐ後ろについた60代後半の夫婦で、亭主は雨具の黒い傘を差し、奥方はそのために買ったとしか思えない径のとても小さな白いパラソルを拡げ、それぞれがにこやかな笑顔とともに、楽曲に合わせ傘を打ち振り、体をくねらせ歩く。道路の中を回るだけの行進なので歩道の両側から掛け声が掛れば、この老夫婦が大仰に答えるものの、如何せんその後も大して観客が増えたわけではない。しかしこの夫婦がいなかったら座持ちがしなかっただろうと思わせるエンターテイナーぶりだった。
 何曲か、そう長くもない演奏で道路を一回りして戻ってくるころには、この二人はひょっとしてサクラではなかろうかと思わないでもなかった。ところがその考えはラストナンバーとともに元の歩道に戻ってきたところで消え去った。管楽器の最後の一吹きで行列は解散し、件の夫婦のうち亭主は笑顔をすっと疲労の顔色に変え、奥方はこちらもすっといくらか不満有り気に素の顔に戻した。心根を推し量るに十分なこの変容はアマチュアでなくて何であろう。噺家が高座を降りるに当たりお客に素の顔色を見せることが有り得ないどころか、他人がいる限りそれは常に意識されたものでなくてはならない。俳優もしかりで、プロであればあるほど心と行動はひとつではない。
 高次脳機能障害は見えない障害と呼ばれて久しい。形態として求めようとすれば確かに見えはしないけれども、行動として捉えようとするならば明らかに見え、対応すべき何かが理解できるに違いない。行動は心の現身である。
 3.11直後に最初に外国から入った連絡は、これを見よと言って映画「スウィング・ガールズ」のYou Tube アドレスを記したアメリカからのメールだった。(2014年7月8日)




第37回 海の道
 伊豆半島西海岸に位置する戸田のウメさんが100歳を超えていよいよとなった時に、これも90歳をいくつも超えた弟が三重県の鳥羽から沼津の病院まで見舞いにやってきた。何十年ぶりかの再会である。鳥羽から近鉄で名古屋に出て、新幹線で三島に着き、そこから出迎えの車に乗って4時間余りの旅程だった。
 ウメさんが鳥羽から戸田に嫁いで来たのは大正の半ばごろだった。嫁いで来るまで亭主となる人の顔を見たことはない。江戸時代から伊豆半島は上方と江戸を結ぶ海上交通の重要な中継点で、同じ西海岸の松崎では当時の殷賑を極めた街の名残をなまこ壁の蔵に見ることができる。そう、ウメさんは船に乗ってやってきたのである。その昔から、ウメさんの先輩格の女衆にも伊勢からやって来た人はいて、中には養子としてやって来た男衆も居ただろう。
 何しろ海を渡ってくれば伊勢と伊豆は隣同志で、人の交流もあれば情報の交換もあり、どこかにいい娘はいないか、いるいるといった話もしたに違いない。陸路は予想よりはるかに大変で、沼津から戸田にたどり着くには峠を越えねばならず、冬には雪に阻まれて凍死するというようなことが昭和30年ごろまであったらしい。
 なれば瀬戸内海という古来からの海上交通の要所では、その地形からして、もっと複雑な人の往来があり、深みのある文化のアマルガムが見られるはずで、それを知らないのはよそ者だからである。地域ごとにブロックなるものを構成するに当たり、九州、関東と切り分けていくのは当然であり、行政機関の割り振りもそのようになっている。ところが、海があるところは陸地を隔てているわけだから、そこは呼べど応えずの限りなく遠い間柄であるはずだと、船を知らない者は勘違いする。
 愛媛から大分の施設に入る障害者もいれば、広島から郷里で訓練を受けるために愛媛に戻る者もある。そこからそこに行くのに船で行くのは当たり前のことで、そのようにして出来た関係は橋が架かったところで変わらない。そんな訳で環瀬戸内ネットワーク会議がもたれるようになり、今年度は愛媛・松山で開催を見た。出席者は瀬戸内海に面した兵庫、広島、山口と徳島、香川、愛媛の各県の支援コーディネーターの方々で、中国ブロックと四国ブロックに分けては相談できない共通の支援対象者のことを含めた意見交換があり、実に中国と四国を高次脳機能障害者は移動しているのである。 
 愛媛のゆるキャラはみきゃんというみかんの顔をした犬で、最初は何のことか分からなかったが実物が講演会に出てきて納得した。
                                                                                                     (2014年7月24日)



第38回 ペジオニーテ
 学校で習った通りの溶岩台地が眼前に現れた。屋島である。ペジオニーテ、と呟いたところで隣の人がイタリア語ですかと訊いた。その隣人が大きなショッピングバッグを持っていて、そこには水玉模様のついた大きな南瓜がドンと描かれている。直島ですか、直島です。短い会話ですべてが通じた。
 直島へ行く船がその建物の隣から出ているからそれに乗って行ってきたのだろう。羨ましくもあるが、梅雨のさ中で屋島もいくらか煙り、天は濃い雲が立ち込めている。船ですか、船です。それで終わった。隣人は草間彌生のカボチャに触れて欲しかったに違いないのだが、そうはならじと屋島を見つめていた。
 香川はうどん県である。香川県庁のHPの表紙にうどんの絵があり、クリックすると香川県産の小麦栽培の歴史に始まり、何ともうどんに関する薀蓄が詰まっている。しかし原料粉の主流はオーストラリア産というのにも驚いた。まぐろだってアイルランド産が酢飯の上に乗る時代だから驚いてはいけないのかも知れない。食堂のおじさんに訊いてみた、うどん屋を選ぶときの基準はうどんそのものかね、出汁かね。ちょっと間をおいて、どっちか一方ということはないけどどっちかと言われれば出汁だね、それもイリコの出汁の違いで、どこのが旨いという話だよ。カツオ、アゴと出汁を取る魚の種類があり、ここではイリコが出て来た。何、普通の煮干しである、と言えば叱られるだろうか。それが大事だとこのおじさんは言うのである。
 第64回日本病院学会は、屋島を見た高松の駅に隣接する高層ビルで開催された。すぐそばに港があり、驚くことに港からそのまま高松城址とつながるのである。したがってお堀は海の水であり、多くのクロダイがプカプカと顔を出して泳いでいる。どうかするとイカも泳いでいると看板に書いてあるのだが、お堀にイカが出てこられても困るのである。高松・松平のお殿様は、海産生物の歴史に残る立派な図鑑を遺したらしいので、お堀にイカが泳いでいるのも止むを得ない。
 高次脳機能障害が病院に関連する学会でシンポジウムの対象となったことは画期的である。福祉的視点から見つめて来た高次脳機能障害という重いテーマは、長いこと医学の分野に分け入ることをためらってきた。脳外科やリハ医学のように直接高次脳機能障害をもつ患者と接する領域はともかくとして、病院学会のように広く領域を問わず多くの医師が参加する学会にデビューできたことで高松の強い印象につながった。
 同時に認知症を担当した対岸生まれの大学教授はやっぱりここはうどんですよねぇと笑って反対方向の機上の人となった。(2014年8月12日)



第39回 メカ派と自然派
 機内誌に福岡伸一博士の連載があり、いろいろなことを教えてもらっている。今回は男の子は年頃になると自然にメカ派と自然派に分かれるとあり、なるほどと膝を打った。道具や機械をいじりまわして遊ぶのが好きな子供と蝶蝶やトンボに入れあげる子供に分かれるというのだ。もちろんそれらは混在するに違いないが、特質をよく表すことこの上ない。女の子についての言及はなかったが裁縫や刺繍は、何かを作りたいということではメカ派と同類かもしれない。
 メカも自然もどちらも元は普通に欲求というか欲望に過ぎないのだけれども、特にメカの方は人間を人間たらしめ、人類をこの高みにまで進歩させてきた張本人やもしれぬ。自然の方は、ややもすると種類集めになり、こちらは男の子に特有の本能のようなもので、何かの役に立つというよりその人にとっての生涯の心の安定剤のようなものとなる。
 何よりメカ派はカッコ良いのである。車だってコンピューターだって、歴史を塗り替えてきたのはメカ派であり、大方の憧れの的になる。一方、自然派は同好の者だけが理解できるようなことも少なくない。人類の主役はメカである。
 また、メカに関心の薄い人種の最後の砦は文学で、メカが立ち入ることのできない領域だと自ら誇示する。10年前に芥川賞を受賞したモブ・ノリオの「介護入門」には介護ロボットを揶揄する場面がある。認知症になった祖母でさえ騙されないというのである。その言い分や芥川賞に価するというのが当時の評価であり、実はこれが現在でも生きている。名作である。
 とまれその祖母が喜んで見るのはテレビであり、嬉しそうに答えるのは家族からの電話である。これがメカでなくて何であろう。いや、諸点において老人の生命そのものを維持しているものはメカだと言って過言はない。
 片や車の発明は高次脳機能障害を生み、片や車の発明が人の命を救う。これをどのように止揚するかはこれからの課題として、誰がそれを担い、果たしてその可能性はあるのか。担い手は見つかった。一日、理工学部に所属する若い研究者たちの表敬と開発中の支援機器のプレゼンを受けた。内容もさることながら、何より若い学生、研究者たちである。上記のことを自身で難しく考えることなどなく、ただ次世代に託せば良いのだ、簡単なことではないかと思わせる輝きが若者にはあった。
 動物の子供を見れば、それがイノシシの仔であっても、スズメの雛であっても、それらを可愛く思い、守らねばと思うのは本能である。若い世代を見て直感的に思ったことはそのような本能に基づくものであり、派生して生じるのは解決は必ずなされるという確信である。素晴らしい若者たちを見た気がした。(2014年9月10日)


第40回 リュクサンブール公園
 真夏のリュクサンブール公園の夕方は暑さからは程遠く、夏至のころに比べれば随分と日が短くなったとは言え、遅い夕食までの時間をベンチに座って本を読む人にとって、猶まとまったページを読み進むことができ、気持ち良く過ごすことのできる捨てがたい機会である。本を持たなくても池と花壇を前にして見るともなしにそれだけでベンチにじっと坐っていられるのも不思議と言えば不思議である。
 実は午前中もここにやってきた。お姫様が嫁入りの時に建てた壮大なお屋敷の前に池があり、珍しく晴れて白い雲が流れていくその下を、まだよちよち歩きの男児が長いひもを付けたおもちゃのヨットを浮かべて引き回していた。気に入ったようで、ひもをもって余念なく、時には高い笑い声を上げながら池の周囲を走り回る。サングラスをかけた30代の背の高い母親は時折子供の居場所を確認するが、あとは知り合いの同年輩の女性と立ち話をするのに、これも余念がない。夏のリュクサンブール公園はどこまでも静かである。
 その後公園を出て大通りに出てみた。目的地はあるがその道程は知らないと言ってもさして遠くはないので迷いようもなく、この道を行けば途中に何があるだろうとささやかな期待をもって歩けば、右手に高等師範学校が現れ、これには驚いた。半ば呆然として建物を見上げ、何か利口になるようなエッセンスでも流れて来るのではないかと古刹に向かうような気持ちで眺め入ったが、今日に至るまでも特段の変化はない。
 さらに歩みを進めるともう目指す植物園が左手に現れた。お目当ては正門前にあるラマルク像であり、その座像ではなく台座のレリーフに用がある。こちらには本人だけでなく娘も刻まれている。進化論を唱えて社会そのものから疎外され、失明した父親の学究生活を二人の娘が支え続けた。そして不遇のうちに亡くなった時の娘の無念の絶叫まで刻まれている。「後世の人々があなたを讃えるでしょう、後世の人々があなたの仇をとってくれるでしょう、お父さま!」とある。
 モーパッサンの時制こそが手本であると言い続けた師匠はこのレリーフを好んだ。一つ話としてたびたび会話の俎上に載せた。バロン・サツマが寄贈した寮からこの植物園の向かい側まで毎日通ったはずで、植物園にもやって来たのだろう。晩年になり呼ばれて訪れた折、何をしているのだという問いかけに、高次脳機能障害に取り組んでいると答えたところ、そのまま黙りこくり会話が途切れた。意識はリュクサンブール公園に飛び、秋に入ろうとする季節の夕方をそこで高次脳機能障害とは如何なるものか思索していたに違いない。気持ちの良い風の中で。(2014年9月30日)



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