新任挨拶
更生訓練所長  岩谷 力



岩谷所長の近影  今年4月1日に更生訓練所長を拝命しました。3月31日までは9年余の間、東北大学大学院医学系研究科障害科学専攻運動障害学講座肢体不自由学分野教授として仙台におりました。この度、ご縁あって更生訓練所長を務めさせて頂くこととなりました。障害者の方々のお役に立てるように力を尽くしたいと考えておりますので、職員の皆さんよろしくお願い申し上げます。
 私は1942年(昭和17年)長野県に生まれました。物心がついたころは終戦後の混乱期でした。白い着物を身につけ義肢を露わにして物乞いをする傷痍軍人、闇米の取り締まり、生活苦のための一家心中などは生々しい記憶として残っています。昭和30年代初期にすごした中学・高校生活は敗戦から抜け出てすこし明るい光が見えはじめた頃であったのでしょう。明るく、はつらつとした思春期でした。昭和37年、1年の予備校生活の後に入りました東大は1960年の安保闘争の余燼がくすぶっており、学生運動が盛んで、立て看板が乱立し、学生ストライキも珍しくありませんでしたが、折しも始まった池田内閣の所得倍増計画政策により日本は豊かになり、学生の政治的行動は年とともに薄れていきました。私は、ボート部に籍をおき、1年間に300日合宿所で生活しました。政治も社会も目標ではなく、毎日強くなるためにひたすらトレーニングを続けました。このような生活には頭は必要ないと言われますが、頭は使いました。いろいろな種類の誘惑(遊びをはじめ、勉強、試験の成績など)に打ち克って物事を単純化して考える、逃げ出したいときにノーテンキになって目前の苦しみに耐えるという腦の機能が鍛えられました。当時、東大ボート部は東京オリンピック出場を目標としておりました。その夢破れたとき、同級生渡辺純三君に導かれ、大学の五月祭で労災事故による脊髄損傷者と出会いました。当時脊髄損傷の整形外科的治療はアメリカの水準に近づきつつあり、脊髄損傷者の方々は社会生活への復帰を強く求めておりました。彼らは社会の無理解を憤り、同時に医学の冷淡さを責めました。学部3年生で名誉総長津山直一先生(東大整形外科第4代教授)に導かれて、肢体不自由児・者の方々とのおつき合いがはじまりました。大学卒業は大学紛争の真っ只中でありました。東大紛争は医学部から始まり、私たちはちょうど、卒業の時期にあり、卒業するか、闘争を続けるか、夜を徹して討論しました。徹底抗戦の主戦論と社会人としての道を選ぶか互いに主張しました。最後には、卒業するのならば敵として攻撃するという発言までが飛び交いました。私は相手を罵り、人格を否定するようなことは生理的に嫌いです。意見を交換して、相容れないのであれば、相手を理解して互いの道を認め合うことで戦いは避けたいと考えています。
 卒業と同時に津山教授の整形外科を志し、関東労災病院、都立北療育園などを経て卒業後7年で大学に戻り、医師としての初期研修を終えました。中村隆一前総長は医局入局当時の医局長であり、昭和47年に都立北療育園で神経生理の基礎を教えて頂きました。昭和52年に静岡県立こども病院整形外科医長として独り立ちしてから、こどもの整形外科を専門として治療、育児、教育、自立を目指す療育の実践に努めてきました。静岡では二分脊椎、筋ジストロフィー、軟骨無形成症、血友病などの患児、家族の皆さんと病院をでて、夏のキャンプを通しておつき合いをしました。昭和59年に自治医大、昭和62年に日大を経て平成5年に中村隆一名誉教授の後任として東北大学に職を得て、20数年の整形外科を越えてリハビリテーション医学に専念するようになりました。東北大学では佐藤総長と大学院、附属病院の仕事をご一緒させていただき、ご指導をいただきました。私は「社会に戻るまでが治療」という整形外科を引き継ぎ、整形外科医でありリハビリテーション医であることをもって肢体不自由児・者の障害治療・リハビリテーションに当たって参りました。国立身体障害者リハビリテーションセンターは我が国の障害者リハビリテーションのモデルを提示すべき使命があります。私のリハビリテーションにおけるキーワードはノーマリゼーションであります。障害者と健常者の垣根なく生活できる社会を目指して、医療と福祉の立場から努力したいと思います。皆さんのご意見、ご理解、ご協力をお願い申し上げます。