〔随 想〕
「なんでだろう〜」
研究所 主任企画官 相磯 義明



 国立身体障害者リハビリテーションセンターに赴任して、この 1月で早3年が過ぎた。この間、習志野市の自宅からセンター まで片道2時間の電車通勤により、当初は読書タイムが増えた と喜んでいたが、時には痴漢行為により女性にネクタイを捕まれ 駅長事務室に連れ込まれるサラリーマンや肩が当たったと争い ごととなる者など様々な人間模様を否が応でも目の当たりにし て、この世の中何か変だという気持ちが沸いてきた昨今である。
 特に、最近通勤途上で変だということを通り越し、不思議と 思うことが、二つある。
 一つは、喫煙者の全てとは言わないが、とりわけ50歳を超える 壮年層の男性と20歳代(もしかしたら10代?)の女性における 通勤途上の喫煙マナーである。昨年5月に「健康増進法」 (平成14年法律第103号)及び同法第7条第1項に基づく「国民 の健康の増進の総合的な推進を図るための基本的な方針」 (平成15年4月厚生労働省告示第195号)が施行されたことに 伴い、駅の改札口や構内から灰皿が撤去されたことも一因では あるが、それでも西武池袋駅や所沢駅などの改札口やホームで のタバコのポイ捨てが酷すぎる。このような責任あるべき大人の 無節操な態度や行動をみて、「モラル」や「公徳心」はあるのか と嘆かわしく思いつつ通勤している毎日である。
 このような喫煙者のマナーの悪さから一部の地方自治体では、 「路上喫煙禁止」や「煙草のポイ捨て禁止」等の条例が制定さ れ、『マナーからルールへ』と違反者にはペナルティーが課せら れるようになったことは記憶に新しい。このようにルールを作ら なければ、大人はマナーが守れないかと考えさせられる今日この 頃である。
 二つ目は、一部の若者のマナーの欠如と傍若無人な振る舞いは ともかくとして、中高年者の車内やホームでのマナーの悪さであ る。特に、通勤途上で目に付いたものは、
@ 大声で携帯電話を掛けている者(輩)
A 通行の邪魔になるような足の組み方をしている輩
B 混んでるにもかかわらず荷物を横に置いて平然として座っている輩
C 飲み終わった空き缶を座席の下に置ていく輩
D 整列乗車ができない輩
E 車中にて化粧をしている輩
F 手の汚れを座席シートで拭く輩
G 降りようとする者がいるのにもかかわらず強引に乗車しようとする輩
H 乗り降りの邪魔になっているのも分からずドア付近にしがみついている輩
I 車中にて雑誌の中に掲載されているアダルト写真を食い入るように眺めている輩
等が上げられるが、これらの者は一体何を考えているのか、 余りにもマナーの欠如とまた、公共交通機関とは何のために、 誰のためにあるのかと不思議に思う。
 1年間の世相を物語り、話題をさらった流行語に贈られる 「新語・流行語大賞」という現代用語の基礎知識選による賞が あり、昨年の「03 新語・流行語大賞」は12月1日に発表され、 「なんでだろう〜」、「毒まんじゅう」及び「マニフェスト」 の3語が大賞に選ばれたことは記憶に新しいところである。
 中でも、「なんでだろう〜」はお笑いコンビのテツ&トモの歌 で、「世の中わからないことばっかり」が受賞の理由とのことで ある。
 この「なんでだろう〜」は、正に今の世相を反映したもので あり、余りにも「自分さえ良ければ、それでいい」という発想 の表れではないだろうか。
 このような世の中になったのは、「一体なんでだろう」と つくづく考えさせられ、時には憤りさえ感じることもある。
 先日、西武池袋線の車中にて、優先席に座っていた初老の夫婦 の会話が今でも忘れられない。その内容を紹介すると、『優先席 付近では携帯電話をお切りいただき、その他の場所では携帯電話 をマナーモードに切り替えるようご協力ください。』との車内 アナウンスが終わった直後に、25歳ぐらいと55歳ぐらいの二人が 携帯電話を掛け始めたのを見て『最近の若者と50歳代の者には 常識はあるのかと、嘆かわしく思う。』という会話が聞こえて きた。その時には、特段気に止めなかったが、後で考えると、 この会話には非常に奥深い意味があり、世の中を皮肉った意見 ではないかと思われる。私流に解釈(いわゆる勝手流の曲解?) すると、正に50代の者は昭和22年から24年にかけての第1次 ベビーブームに生まれた、いわゆる「団塊の世代」であり、 その者の子が丁度20歳代ではないだろうか。
 すなわち、親から十分な家庭でのしつけを受けられなかった 子が親になったとき、その子に対して十分なしつけをすること ができないと、いう人生の先輩である者からの厳しい戒めでは ないだろうか。
 私も子供を持つ親の一人として、他人事ではない。
 50歳になろうとしている現在、「子曰、吾れ十有五にして学に 志す、三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を 知る。六十にして耳順ふ、七十にして心の欲する所に従って矩を 踰えず。」との教えがあるが、未だ公私にわたり惑いの連続 であり、不出来な私としては「惑わず、天命を知り得る」のは 相当先のように思われる。
 いずれにしても、今年は不惑の最後の年ということもあり、 この職業を志したときの初心に戻り、公務員としてのあるべき 姿である「滅私奉公」を改めて肝に銘じ、研究所の一員として 可能な限りの汗をかきたいと考えている。