〔巻頭言〕
情報化社会でのささやかな抵抗?
赤居正美



 情報化社会の進歩はとどまるところを知らず、電子メールや携帯電話が一日24時間のうち、本来はプライベートと思われる時間内へどんどん侵入してくることはもう当たり前となっている。この圧倒的な現実の前では今さら多少の違和感や文句をいっても仕方がないのだが、さすがに未だもって旅行先で必ずメールのチェックをする気にはならない。例え外国であってもチェックは可能で、それを実行している人々がたくさんいるのも充分承知はしているが、旅行先まで追いかけられたくないという思いである。
 しかしここで突っ張って1週間の旅行から帰って来ると、溜まった大量のメールチェックが待っている。最近はSpamメール対策のソフトが導入されているので、半数以上はそのまま捨ててしまうため以前に比べるとぐっと楽にはなっているが、残り500近くを半日かけて処理しなければならない。旅行期間が長くなれば、処理すべきメール数はさらに増える。また進歩した対策ソフトも頼りすぎると、時に大事な内容のメールを捨ててしまい、後で大騒ぎになることもある。
 若い人たちは寝るときも枕元に携帯電話を置くという話を聞くが、勤務中はやむを得ないにしても、他の時間帯、自身のプライベート時間の中に相手の都合でズカズカ入ってこられるのはたまらない。まとまった一定の時間を確保しにくく、時間も細切れにされてしまうという問題はどう解決すればよいのだろうか。求められる返信を直ぐに返すというのもそう話は簡単ではないのだが、他の人たちはいったいどうしているのだろう。
 もっと直接的に困ってしまう例に、投稿論文の扱いに関してのオンライン化がある。査読に要する時間がどんどん短縮されるのは迅速性を重んずる上では、科学の世界に住んでいる限り文句の付けようはない。ただし、締め切りまでの時間がどんどん早まっている上に、査読のプロセスが現在どの段階にあるのか著者はコンピュータ上で確認することが出来るので、査読を依頼される側にとっては仕事の進行状態を常に監視されていることになり、これもまた査読者にとってはかなりの圧力である。逆に投稿する側も大変で、一旦採用が決まってからの校正刷りのチェックは、以前には手元で72時間かけてもかまわないうえ、郵便で返送していたものが、現在はオンライン上で48時間内に反応しないと電子メールで督促が来る。
 自律的な時間管理が脅かされるかたちで、ひたひたと情報化という荒波が迫りつつあるというしかなく、我々の個人時間というようなものはいずれ沈んでしまうのか。医師に残されていた時間配分に係わる「自己裁量権」は仕事上かなりの救いになっていたものの、どんどん失われつつあるようだ。以前はじめて国際ファックスが登場したときには、帰宅時に送っておくと翌朝には返事が来ており、非常に感激したことを思い出すが、今では電子メールの相手側もたまたまコンピュータに向かっている場合には、即座に返事をもらうことになる。この利便性をかけがえのないものと思えば、他人の時間に侵入する側と侵入される側の立場を、状況に応じて一個人の中で使い分けざるを得ないのだろう。これはかなり悩ましい問題で、簡単に結論は出そうにもない。
 交通手段が便利になって、泊まりがけの出張がなくなってしまったという話をよく聞くが、述べてきたようなコミュニケーション手段の進歩、現状は果たして便利になったと喜んでいいのか、逆に自分の首を絞めているのか。私のようなやり方は、所詮むなしい抵抗で時代遅れなのだろうか、あるいは少々の不義理は許してもらうべきなのか。