〔巻頭言〕

3丁目の夕日

総合相談支援部長 角田 宗広


 今年の4月はヒノキ花粉でひどい目にあった。以前から軽いヒノキ花粉症の症状はあったのだが、北海道でヒノキ花粉のない生活を3年間送ってきたせいなのか、所沢勤務となった今年は、一挙に猛烈な症状がでた。止まらない鼻水、くしゃみ、涙、不眠、正直言って辛い初任1か月であった。
 ゴールデンウィーク前には、薬が徐々に効果を出してくれたのか、花粉自体が少なくなったのかその両方か症状は和らいだが、疲労が蓄積していたのかゴールデンウィークはどこにも行く気がせず、自宅でボーッとして過ごしていた。
 そんなある日ソファーに寝そべりながら、映画専門チャンネルで「三丁目の夕日」、「続三丁目の夕日」という映画の連続放送を見た。内容を簡単に言えば、東京タワー完成前後の東京下町に住む自動車修理工場を営む両親と小学生の男の子の家族、その工場に東北から集団就職できた女の子、近所に住む売れない小説家等を中心とした当時の人情と暮らしぶりを描いた作品である。
 物語の中で、その家族がテレビを初めて購入し近所の人も大勢家に集まりプロレス中継を興奮して見るシーンや氷で冷やす冷蔵庫を電気冷蔵庫に買い替えて親父が頭を中に入れその冷え具合に感動するシーンやローラーを回して脱水する洗濯機を子供が喜んで手伝うシーン等が出てくる。そのシーンにいちいち「あったあった」と頷いているうちに、当時の自分の暮らしぶりが断片的に脳裏に浮かんできた。正確に言えば私は昭和30年に東京の新宿区薬王寺というところで生まれた。東京タワーの完成は昭和33年なので、脳裏に浮かんだのは映画の時代の後半を含めた数年後のことであると思う。
 毎日のように近所の原っぱで暗くなるまで野球をしたこと。野球に飽きるとバッタやトカゲ、トンボ、カマキリ等を捕まえて遊んだこと。トイレの磨りガラスにへばり付いたヤモリが怖くてトイレに行けなかったこと。秋の夜はコオロギの鳴き声がうるさいぐらいだったこと。野良犬が多くいて、友達が咬まれて救急車が来たこと。月に1回程度夕飯にでるカレーとコロッケが一番のごちそうだったこと。家族でおにぎり持参で時代劇3本立の映画に行ったが、毎回2〜30分でむずかり両親を困らせたこと。東北訛りのある酒屋の御用聞きのお兄さんと仲良くなりよく自転車の荷台の木箱に乗せてもらい走ってもらった。ある日自転車が転倒し、慌てて私を気遣う真剣な目と何もなかったと判ったときの笑顔。実直でやさしい人だったと思う。恥ずかしいが小学生に上がるまで「か」の発音がうまく言えず「た」になっていて直るまで毎日発音練習をしてくれた佐々木先生の顔が何故か鮮明に浮かんだ。フジテレビの本社が近所にあり、正面玄関前の芝生で遊んでいた時、坂本九さんに「いっしょに遊ぼう」と声をかけられ遊んでもらった「明日も○時頃おいで」と言われ2週間ぐらいだろうか一緒に遊んだ。偉ぶらないやさしい澄んだ目をした人だった。フジテレビの落語の公開放送に家族で行ったとき、確か最前列に座ったと思うが林家三平師匠のつばが私の服にかかったこと。
 生来の記憶力の悪さかこの程度のことしか脳裏に浮かばなかったが、考えてみれば嫌な記憶など一つもない。両親の深い愛情と周りの方々の暖かい気持ちにより育てられたと改めて感謝しなければいけないと思った。
 今回の東日本大震災では、両親を失った18歳未満の震災孤児は200人を超えるという。ほんとうに大変な事態である。今回書かせていただいた年頃のお子さんもその中に多く含まれているだろう。その子達が周囲の惜しみない愛情と政府、自治体、専門家等の手厚い支援によりすくすくと育っていくことを心から祈っている。