トップ > センター長より

設立趣旨 



 障害の有無にかかわらず、誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合う共生社会が、目指すべき社会のあり方として掲げられて久しく、今世紀に入ってから、国際生活機能分類や障害者権利条約が採択されたことは、障害に対する全世界的な理解と反応が大きく変化していることを物語っています。さらに、この権利条約の実現の促進を目指してまとめられた、障害に関する世界報告書は、障害の重要性および対応を総合的に分析し、国内外で進めるべき活動を提言しています。
 このような国際的な流れと時を同じくして、国立障害者リハビリテーションセンター内に、高次脳機能障害情報・支援センターが設置されました。共生社会は、相互理解と尊重がなければ実現しえません。高次脳機能障害情報・支援センターは、当事者家族会・行政・有識者から成る運営委員会を設け、高次脳機能障害支援に関する施策や国内外の情報を収集・整理して発信します。高次脳機能障害という「見えない障害」について、一般国民にはわかりやすく、専門職には詳細に解説をします。具体的には、各種支援手法の成果を検証し、よりよいものに改正することをはじめとして、支援拠点機関の職員等を対象とした研修を実施して人材育成を行い、シンポジウムを通じて普及啓発に努める所存です。また、高次脳機能障害支援拠点機関と連携して地域における支援の充実を図り、見えない障害と支援に関する理解を社会に広めることを目標に、前進してまいります。(平成29年4月1日)

国立障害者リハビリテーションセンター
高次脳機能障害情報・支援センター長

前センター長のコラム


第50回 グエン君    

 グエン(阮)君はコンピューター技師であり、私がベルギーのブリュッセル自由大学脳研究部門で働いた折、実験を共に行った仲である。1980年代半ばのことである。
 年を問われたので答えると次いで兎かと訊かれ、頷くとにやりと笑った。同い年だった。おおアジアの仲間だと思えるやりとりながら、私はこの時ベトナムを何も知らず、東南アジアの中でひとくくりに位置づけていたに過ぎない。
 ブリュッセル自由大を卒業した彼はインテリだった。しかしいつからブリュッセルに住んでいるのか訊いて良いものかどうか、心の片隅にもつわずかなためらいのために当時はとうとう訊かず仕舞いだった。自身の記憶に頼ればベトナムからボートピープルが日本に押し寄せて来る頃よりいくらか以前の出会いで会ったはずである。出身地は訊かなくとも分かったが、国籍は訊きそびれた。ベルギー国籍かどうかを迷った訳ではなく、北か南かを問うのをためらったのである。
 私はベトナムがどのような経緯の下にある国家か新聞以上に知らず、一方でグエン君の知ることは当然ながら詳細で、フランス、米国、中国のすべてに勝利したとにやりと笑う。彼の関心は勤務時間と休日とバカンスにあり、日本で働くことはないねと常々言っていた。日本がILOの勧告を幾度も受けていたことが、そんなに遠い過去のことでもなかった時代である。
 プラザ合意のために日本からの仕送りを1万円ずつ両替する作業の手取り額は日々増えていく有様で、何とはなしに夜の街もそぞろ歩きしたくなる毎日だった。大学から近いグランプラスの食堂横丁で単身赴任の夕食を取り、さて宿舎に帰るかと詳しくなった小路を旅行客とは異なる暗くて狭い道を選び分け入ると、一人のアジア人の青年が近寄り、今日着いたんだが皆はどこにいる、とささやく。知らない、俺は日本人だよ、と答えるやすっと闇の中に消えた。
 翌朝バス停に立っていると七十代のいかにも年寄りといった風情の、季節外れの、しかもよれよれの厚いオーバーに身を包んだ男が近寄り、日本語で日本人かと問い掛ける。そうだが何かと答えるとそれだけで去って行った。このふたつの出来事をグエン君に話すと、ベトナム人だよと言った切り黙ってしまった。彼はブリュッセル市内のベトナム料理店に詳しかった。たまに彼の車に乗り宿舎に戻る時に車の中から料理店を見る彼に笑顔を見ることはなかった。
 ある一日、研究室の外では工事が始まり、休憩時に二人で現場を眺めると小松製作所のユンボが稼働している。アンドレ・マルローの人間の条件にKOMATSUが出てくるだろうと言う。何のことだか分からないまま、三十年が過ぎるのである。ベトナム語で茶をチャと言い、蘭をランと言い、また仏教は大乗であり、この点でベトナムの文化は東南アジアから一気に離れ、日韓中越が一群となる。そのようなことをブリュッセル市内6,000人の日本人相手のOCS書店で買った本から学んだ。
 ハノイで生まれ、サイゴンで育ったグエン君がベトナムを脱出したのは17歳の時のことである。父親がニューズウィークの記者だったので、西洋事情には明るい一家で、私が知り合いになったころにはその父親はすでに居らず、兄弟はパリとブリュッセルに分かれて住み、母親はブリュッセルにいた。果たして彼が持っていたパスポートは南のものであった。今年になってネットで気が付いた。マルローの人間の条件の主人公キヨはマルローの友人だったフランス文学者小松清の名前を借りたものだった。ようやく分かったとグエン君に伝えると太平洋戦争中にインドシナ半島に渡った小松清とグエン君の父親は親友だったと言う。
 12月6日のクリスマスの日を前にした日曜日に筋ジストロフィー症のパーティーがあるから公民館に来いとボスの秘書が言う。ボスが会長で、会の名前はリーグ・ド・ミオパチーである。クリスマス用の果物を模った糝粉細工がチョコレートに代わってお菓子屋の店頭を飾るのに合わせるように、会場にも模造の花、糝粉細工の果物、根付きのネギを逆さにして目鼻を付けた人形が所狭しと並べられている。
 会場には市民が何十人となく集まっていて、スタッフとして積極的に手伝う人とお客さまとして参加するだけの人がいるのはどこの社会でも普通のことである。研究部門の人間もいて、おやこんな所にも顔を出すのだと思ったのはグエン君が居たからではなく他のスタッフのことである。少人数の集まりながら人種、宗教、その他の生活信条を超えてミオパチーの子供を励ますために顔を出すにはそれなりの社会の仕組みがありそうだと思ったのはそれから1週間の後のことである。
 家族がブリュッセルに到着するまでの短い期間を利用して私は語学学校に通っていた。そこの美人教師が突然、あんた有名よ、と指を指し、あの会場に日本人が居たって、ドゥスメットのところで働いているんだってね、すっかり話題よと続ける。人口80万人はそんなところらしい。行政の力を借りないでできることがあるのは何か得体の知れないとてつもなく大きな後ろ盾が社会にあり、自分の行動をも見つめているような気がしたものである。
 そのグエン君が今月日本にやって来た。ペンション生活の始まりだと嬉しそうに言った。(2016年12月15日)

第49回 君や知る満天の秋
 君が東京を離れて一年余になる。後になって転居のはがきを受け取るまで僕はそれを知らなかった。だから惜別も何もあろうはずがなく、ただ窓の外で静かに山茶花が散るばかりだった。
 僕には初対面の記憶が欠けている。どこで、どのように紹介されたか覚えがない。どの季節だったかも分からない。そうではなく僕の講演の後で挨拶に来てくれたというような、そんな最初の出会いだったかも知れない。その頃東京で、深深と雪の降る日に講演会があったはずだ。
 今になってそんなことが気になって名刺ホルダーを繰るのだが、君の名前はどこにもない。分からないことだらけだ。そう思ったところで百舌が一声鳴いて飛び去った。きっと渡した名刺を頼りにメールをくれたのだろう。それしかない。しかし自分のPCは2年前に交換していて、その時エクスポートしたメールはどれも開くことができず、何の手掛かりもない。それどころか、このPCの中には東京を離れた君が梅雨明けのころにくれた時候を告げるメールひとつがあるだけだった。
 僕は君が働いているところを見たことがない。実のところ君がどのような資格をもち、どのような経歴を歩んだ人なのかを全く知らないのだ。僕よりずっと若いが確かな年も知らない。だから知っていることを書く方が早い。君は都区内の施設で働いていた。東京が長い訳ではない。それですべてだ。最初のうちは君が僕に質問していたが、いつの間にか質問は僕からだけになった。それもメールのやり取りが常で、いろいろな集まりでたまに会うぐらいが直接言葉を交わす少ない機会であり、僕が礼を述べるのが常だった。最後に会ったのは、予想もしない都心の街角で声を掛けられたときだ。随分と痩せていたので気になった。ビルの谷間には珍しくツバメが斜めに空を切った。
 これで話が振り出しに戻る。転居のはがきを僕にくれた理由がすぐには分からない。それまで僕の質問に君は実に誠実に答えてくれた。顧みればその回答には余人の及ばない物事を見透す心の目をその都度感じるのだった。僕は君にそのようにして施設の中の出来事を学び、福祉の世界を知ったのだ。どれほど役に立ったか分からない。そんな僕にまた質問して良いと思ってくれたのか。
 青山通りをクーペから降りる和装の麗人を横目に見やりながら下り、根津美術館に差し掛かりもみぢ葉が紅色鮮やかに染まるのを確かめながら君のことを思い出している。しばらくの時間を追憶にあてるために青山墓地に分け入ったところで真っ青な空が広がった。もみぢに劣らない紅葉のどうだんつつじの植え込みのある墓地の中の細い道をまっすぐ歩き続けたところで正面に、この上ない見事な黄葉のいちょうの大木が道路の両側にずらりと並ぶ偉容が現れた。その中央の奥には絵画館がどっしりと控える。君は知っているだろうか、今、東京は満天の秋である。(2015年12月8日)

第48回 しんにゅう又はしんにょう
 5年か6年前からになろうか、不定期ながら1年に3回手紙を出す友人がある。ある集まりの会報を受け取ると数日後に転送する。小さく折りたたむと普通の大きさの封筒に入るので、伝票を入れていた茶封筒がどこかにあれば使い回して今度は郵便物になろうというものだ。そんなわけで表には相手の住所氏名を手書きするが裏は自分のゴム印を押すだけで終わる。
 その彼の住所には町名の中に「道」という字があり、3年ぐらい前から「道」のしんにゅうが書けなくなったことに気付いている。突然なのか徐々になのか覚えていないが、ある時を境にして、であるような気がする。それは別に理由があるからだ。少なくともこの1年ぐらいは書けないことをはっきり自覚していて、その会報を送るたびに心が相当痛む。何とか書けるようになりたいのだがいつまでもだらだらと放っておくのはいつもの悪い癖だ。近頃はしんにゅうを斜めの点を二つ打ち下に長い横棒を引いてお茶を濁しているだけで、それでも「道」の字になっているのは「首」の部分がとりあえずきちんとしているからだ。
 書棚に千字文があるので取り出してきてしばらく道の字だけを見ながら試し書きを続ければ治るかもしれないとは思いつつ億劫で時間だけが過ぎていくのは、とりあえずワープロで文書などどれだけでも作れるからだ。どうしてしんにゅうだけ書けなくなってしまったか。書けなくなってしまったことがきっと突然だったろうと思うのは、突然新しい字体を書き始めることがあるからで、世に聞こえた秀才だった先輩がアルファベットの大文字のDを筆記体で書くときの字体に魅せられた途端に次からはそれを真似たDを書き始め、そのまま今日に至っているからだ。字を書くというのはそんなことで、だから書けなくなるのもそんなもんだと思う他ない。
 ゴルフにイップスがある。ある動作にかかるとそれまで普通に動いていた体の一部が、神憑りのように動かなくなったり間違って動いてしまうことをいう。ジャンボ尾崎のような稀代のプレーヤーにしてそれが起こるのはあの18番ホールでのパットで歴史的事実になった。その後も優勝し続けたジャンボだから、どこかでイップスを克服したり修正したりできたはずなのだが、とても残念なことにその詳細を知らない。どのように起きて、どのように治していったか、どこかに当人が語ったものがあれば読んでみたいものである。そうすれば自分のしんにゅうも元の形を取り戻すかも知れない。
 もとよりゴルフというのは過酷なスポーツである。人間の体は体幹のように大きな力を出す部分はその分粗雑な動作にしか向かず、片、肘、手首、指先と先端に向かうにつれて力は出なくなっていくけれど、その分繊細な動作ができるようにできている。だのに体幹に繊細な動きをも求め、遠くにしかも正確に飛ばせというのだからある意味物の理を無視しているとしか言いようがない。だからジャンボはプロであり、プロスポーツが成り立つような競技はすべてがそんな不自然さの上に成り立っているように思えるし、その不自然を自然にするために一体何度同じ動作を繰り返すのか、考えるだけで気が遠くなる。
 習字も筆を指先だけでこねくり回すときれいな字になるのだが、書かれた字を見ればそうだとすぐに分かるので、その次には先生が書いている最中にやって来て、もっと肘で運筆しない限り字にはならんのだとばかりに肘をぱちんとはたくのだ。片や肘の大きな動作は極端に大きな字を書くならともかく、細かい技法を弄するには向かないものを、これを用いて小さな字を書くということに習字という訓練技法があり、プロの書道家というものが存在する所以かと素人はあきらめる他ない。
 ゴルフも習字もイップスが出るような運動はすべて人工的な作業ばかりで生来のものではないように思うのは、犬や猫にイップスがあるとは到底思えず、人間ができないような芸当ができるのも彼らにとっては固より当たり前の動作だからである。自然にはなく、無理に意図した運動プログラミングに限って中途で齟齬を来してくる傾向があり、しかし色々な技術を駆使するということは、特にそれが職業性を帯びるほどに新たな運動プログラミングを要求することになる。そのためには新たに学ぶことについては教師があり、壊れたものを治すにはコーチが必要になる。学ぶことについて素人はひたすら頑張れというだけで実際にどうすれば良いのか教えることはできず、治すことについて素人は欠点をあげつらうことはできてもどうしたら治せるのか示すことはできず、いずれの場合においてもプロの教師、プロのコーチが居るのは歴史的必然である。
 商品になるような物を作るということが高次脳機能障害者ではどのようなことか、障害特性を見抜きそれをうまくカバーした上で改めて物を作るのに必要な技術を動作として身に付けるためには何をどれだけ、どのようにということは障害者職業センターの方たちが最も詳しいはずである。そうだとして高次脳機能障害者の職業訓練が始まって15年というのは歴史という視点からすれば始まったばかりと言える。これからの経験の蓄積は楽しみでもあるし、最も希望のもてる分野である。
 アンラッキーなことに右肩に五十肩が始まり、あとひと月はほとんど肩を動かすことはできないと宣告された。指先は動くので、左腕で右手をキーボードに持っていってやればこうして文章を作ることも問題ない。でもしんにゅうを何とか書けるようにしたいという作業はずっと先のことになりそうだ。(2015年9月14日


第47回 日々電車に乗って
 電車に乗っての毎日は、行きも帰りもいわゆる逆方向である。特に朝、都心に向かう反対路線のホームは人で溢れかえり、駅員が押し込まなければ扉を閉めることもままならない。それを後目に座って窓外を眺めているだけの通勤は気ままなものである。
 四季を通じて乗り合わせる通勤仲間には、同じ時期にクールビズとなり、同じ時期に再びネクタイ姿になる者もいれば、真夏にあって背広の上着を手に持って出勤する者もいる。3月末を区切りにいなくなれば転勤したかと何日かは思い出すのだが、やがてはそれも遠のき、その季節になればみんな転勤するのだという思いだけが残る。
 中には似たような年齢で思いもかけない季節の月始めに突如いなくなったと気付くこともある。どうしたことかと不思議に思い、大病でもしたかと思い、誕生日を迎えてその月限りで定年になったのだとやっと納得する。沿線には大学も多く、学生もたくさん乗り合わせているはずなのに、こちらの方はいてもいなくても一向に意識に上らない。
 中背の痩身をこだわりのジャケットとパンツで包み、禿げた頭に粋の極みの帽子を載せ、老いの始まった顔に載せた金縁の丸眼鏡が時々日の光を反射し、加えて今日は縦縞のワイシャツに渋いパピヨンを付け、ツートンカラーの革靴に暖色系を組み合わせた大柄なチェックの靴下が裾から覗く。細工の入った皮製の小さな肩掛け鞄を脇におき、大きな色石を嵌めた指輪を2個ずつ付けた両手で毎日小むつかしい本のページを繰るか新聞を広げているのできっと大学の先生に違いない。君もいつの間にか大学に通わなくなったようだ。
 この鉄路は障害者の利用でも有名だ。あらゆる種類の障害者が乗り合わせ、中には単独では目的地に辿り着かない者もいて、それが無事到着することに鉄道会社の理解と駅員の尽力を如実に感じるのだ。片や幻聴に答えてつぶやき続ける中年の男は移動に困難がない代表で、毎朝決まって途中から一人で乗って来て、途中の駅で降りて行く。知的に障害をもつ女性は私と同じ駅で乗り、同じ駅で降りる。毎朝指導員が改札で出迎え、駅前広場の一角に集まる仲間たちのところに案内する。この指導員のことを私は飛行機に乗って行く遠い田舎町の出身で、年齢は何歳とまで知っているのだが、実は誰だか知らない。先方はもちろん私のことは知らない。
 その男を初めて見た時は心底驚いた。その遠い田舎町の町立病院の医師がそこにいたからだ。彼とは職場こそ違えたものの、研究仲間として長い年月の交誼を結んだ。しばし頭が混乱して遠い記憶を辿ると、自分には双子の弟がいて、埼玉の障害者施設で働いていると言っていた。なるほど、これかと頷いた。
 職場の売店に週1回高級パンが届く。最近はキヌアをたっぷり入れたパンが出色で、400円である。市価なら800円が相場だろう。何の遜色もない。この女性を含む知的、精神障害の若者たちが作っているわけだが、400円で売るパンの製作を誰が指導しているのだろう。週1回ということは週1回指導に来るということだろうか。400円という価格は800円で売る販路をもたないということか。400円でも日々買う価格ではないということか。複合要因の結果として400円になったのは品物一般の価格形成と変わるところはない。駅前のパン作りの一群は極めて多様で、かつそれぞれ優れて個性の強い人たちの集まりである。通り一遍の指導法で済むようなことではなく、指導員の深い経験と知恵の結晶がキヌアのパンである。
 白い杖と車いすに加えて多様な障害者が電車に乗る日々は、何事も当たり前に変えていく。ある日、小太りのいつもニコニコ笑っている20歳に満たない男子がイヤホンを両耳に差し、立ったままヘビメタを目一杯の音量で聞いている。どこか知らないが知的障害の施設に通うのだろう。こちらの心配は難聴になりはしないかとそんなところにあるのだが、普通に受け止めればシャカシャカがうるさくて仕方がないということだ。半端な音量ではない。混んではいないが車両にはそれなりの乗客がいる。一番そばに立ち、新聞を読んでいたラフな服装をした30代の男がスポーツ新聞をたたみ始めたと見るや、縦長にたたんだ紙の束がヘビメタ君の頭を勢いよく打ち、その車両にいる乗客すべてが顔を向けるほど大きな音が出た。
 男は終始無言で、ぶっ叩いた後で、次の駅でさっさと降りてしまった。元々そこで降りるはずのいつもの駅だった。叩かれた当のヘビメタ君は鳩が豆鉄砲を喰ったみたいにキョトンとしている。にわか作りのハリセンは、どんなに力一杯叩こうと音ばかりなのだ。障害者が乗り合わせる電車を毎日使うことで、男にとってヘビメタ君がいることも日常風景だったに違いない。関わりをもつことにためらいをもたない珍しい風景だった。一緒の車両にいた乗客たちは一瞬大きな音に驚いただけで、すぐにスマホを見るか文庫本を読むか、元に戻っていった。何もせずにぼんやりと向かいの車窓を通して外を眺めていた自分だけが一部始終を見ていた。(2015年8月19日)


第46回 考える葦
 パスカルは1600年代中期の人で、数学者として、また思索家として歴史に名を残し、39歳で人生を閉じた。科学哲学探究の反面、世長けた人でもあり、世界で初めての乗合馬車を考案し、公共交通機関の端緒を付けた。5ソルの馬車と呼ばれたこの馬車はパリ市内に停留所を定め、定時に循環運行し、5ソルを支払えば誰でも乗ることができた。それまで馬車と言えば自家用かハイヤーみたいなものだったので画期的この上なく、しかもこれが流行ったのでおもしろい。
 この馬車を当時の版画で見ると、車道は土を固めた道のようだが歩道は敷石で舗装してある。しかも段差があるのでこの角に頭を打ち付けたらとんでもないことになるのは容易に想像できる。後年のパリであれば道路は全面的に石畳の舗装路なので、どこで転んでも痛いだけでは済まない。
 脳外科では直撃損傷coup injury と反衝損傷 contrecoup injury という用語で頭部打撲の際の脳の損傷部位を表現し、打ったところの直下に損傷が生じることと、180度反対側に損傷が生じることを指す。それぞれの英語を付けたが、どちらも前半分はフランス語で、ジャン・ルイ・プチという外科医が1700年前後にこの病理を発見し、名付けたことに因む。
 私はこれ以上のことを知らないのだが、何となくパスカルが運営したツール・ド・パリという市内循環馬車が人を撥ね、石畳の角に頭を打った人をプチが診察したのではないかと思っている。衛生学上の統計があるかどうかはともかくとして、そうした事故は常にあったのだと思える。一方、当時にあっても人の寿命の推計値はあり、フランスでは平均寿命は20歳代で、よってパスカルは決して短命ではなかったのである。
 先年アメリカでは認知症Dementiaという用語を廃し、アルツハイマー病による神経認知障害とか外傷性脳損傷による神経認知障害と呼ぶことが提唱された。1801年にピネルが初めて使って以来の歴史的用語がここに終焉を迎えようとしている。あらためてそれぞれの命名年を見ると、プチが頭部外傷の重要知見を述べてから、ピネルが同じパリで認知症を提言するまでにちょうど100年が経っている。
 そこでふとアルツハイマー病はいつ発見されたのだろうと疑問が湧いた。アルツハイマーがアルツハイマー病を提唱したのは1906年であり、51歳の女性を診察したことがきっかけであった。それまでもアルツハイマー病はあっただろうにと言えばそうに違いないのだが、医学史上では大した話題になってはいない。今一度、自分の頭を整理するためにドイツの平均寿命を調べてみた。1906年当時は46歳と出た。それも現在のような乳幼児死亡率のような複雑な因子を含むものではなく、成人した人間が何歳まで生きるかという私たちの実感に近い計算をしてのことである。この女性は長生きだったのだ。
 ドイツがそうであったら我が日本はどうだろう。1904年に日露戦争の際に森鴎外が作った扣鈕(ぼたん)という詩がある。

扣 鈕

南山(なんざん)の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん ひとつおとしつ
その扣鈕(ぼたん)惜し 
べるりんの 都大路の ぱつさあじゆ 
電燈あをき 店にて買ひぬ はたとせまへに 
えぽれつと かがやきし友
こがね髪(がみ) ゆらぎし少女(をとめ)
はや老いにけん 死にもやしけん
はたとせの 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ かたはとなりぬ 
ますらをの 玉と碎けし ももちたり 
それも惜しけど こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕   

 この時、鷗外四十二歳。南山の戦いの際に軍務手帳に書かれたこの詩は前後のメモから判断して、まさに若い兵士が砲弾に体を引き裂かれ、その数、百千(ももち)に及んだのを観戦しながら作詩されたといわれている。金髪の少女とは「舞姫」の主人公のことで、20年前(はたとせまえ)鷗外帰朝の折、後を追いかけるように単身横浜までやって来たのだが、鷗外の家族に阻まれ、会うことも叶わず単身マルセイユに向け旅立った。それを思い出すに、もう老いただろうか、それとも死んでしまっただろうかと慨嘆するのである。42歳である。
 童謡に「船頭さん」があり、1941年の作品で、
村の渡しの船頭さんは、今年六十のお爺さん
年を取つてもお船を漕ぐときは、元気いつぱい櫓がしなる

と歌う。日本人の平均寿命が60歳に達したのは1951年のことであった。
 アルツハイマー病より頭部外傷の方が先んじて近代の医学史に現れたことはあながち偶然ではあるまい。17世紀といえども建物の高層化、交通機関の発達は頭部外傷の機会を増やし、一方で加齢に伴う認知症はその当時では発症以前に大多数の人の寿命が尽き、70歳に到達することは古来稀な出来事で、まさに寿ぐ対象だった。
 認知症が廃されいずれもが神経認知障害に括られ同じ土俵に上がったことで、どちらも同じような市民権を得るのか、はたまた異なる市民権を得るのか、今一度考えてみたい。(2015年6月2日)



第45回 惜別の春
 「止まるも行くも限りとて」、蛍の光の一節さながらに、今日を限りの去りゆく者と留まる者の別れの季節を迎えるのも、毎年のこととは言え、今年はまた格別である。
 「互(かたみ)に思ふ千万(ちよろず)の、心の端を一言に」、と互いを思いやる名状し難いこの心のありようを、もし一言で相手に伝えられたら、どんなにか心安らかであろうと、古来、誰もが悩んできた。そして行き着くところは訳もなく、一杯の酒を勧めることに尽き、その酒はエリーの故郷の酒のように度数の高いものでなければならぬ。
 唐の詩人、于武陵は人との別れを惜しんで勧酒(酒を勧む)という五言絶句を、

勸君金屈巵 君に勧む金屈巵(きんくつし)  君に金の杯を勧めよう
滿酌不須辭 満酌辞するを須いず(もちいず) なみなみと注がれた酒に遠慮の要はない
花發多風雨 花発けば(ひらけば)風雨多し  花が咲くころには風雨も多いように
人生足別離 人生別離足る          人生も良い出会いには別れがつきものだ


と歌い、これを井伏鱒二は、

コノサカズキヲ受ケテクレ 
ドウゾナミナミツガシテオクレ 
ハナニアラシノタトエモアルゾ 
「サヨナラ」ダケガ人生ダ


と翻訳した。
 酒がなければ何か言葉を発するしか仕方がないのだが、いずれ万感の思いを込めて杯を合わせるに如くは無し、しばし立ち尽くすのは人の常であり、蛍の光では百年の名句「幸くと許り(さきくとばかり)歌うなり」とまとめ上げ、お幸せにと結んだ。
 万感の思いはどうしてもうまく言い表せなくて、たった一言、口から出て来た、お幸せにが饒舌に語られる万言よりはるかに別離に相応しいのは不思議である。あんなこともあった、こんなこともあった、色々な出来事を胸にしまったままに、酒を含み、サヨナラと一言伝えるばかりである。
 君はもうすぐフェリーに乗って西国を目指すだろう。2年の間に対応できたことは直接的に支援普及事業の充実につながった。長い間、高次脳機能障害関連事業は視座の中心に一般就労を据えていて、当然のこととは言え、より重度の人たちへの取り組みがいつ始まるのかという期待を期待のまま長く引っ張るようなところがあった。君のおかげで福祉関係者への研修会が始まり、就労継続B型に代表されるような施設での取り組みに端緒が付いたから、これを育てていけば高次脳機能障害者に向けた福祉はその領域に、確実に拡がりを見せるだろう。
 また、大都市特例のない「高次脳機能障害及びその関連障害に対する支援普及事業」では、例外的に名古屋が愛知県からの委託によって業務を運用してきたが、主として近畿地方から要望のあった政令市での事業遂行の要望は長い間懸案のままになっていた。これに区切りを付け、名古屋同様に府県からの委託という様式で事業に加わることができるようにしたのも君だった。
 語るに尽くせない諸々のことを思い出しながら、本来ここで一杯の酒を勧めるところであるが、車で出発する君を見送るに当たり駄弁を弄じることを恥じるばかりである。(2015年3月25日)

第44回 自動車の社会的費用
 表題は文化勲章・経済学者宇沢弘文の手になる岩波新書のタイトルである。1974年の発刊であるから40年を経たことになる。宇沢先生は昨年亡くなられたので、時代の区切りに居合わせた者のたまさかの読後感になろうか。
 社会的費用とは、そのものが生み出す好ましい効果、言わば価値と呼べるものとは真逆の、好ましくない効果を避けたり穴埋めしたりしなければならない経費のことである。例示されるのは、車社会でなければ不必要な横断歩道橋の設置、交通事故や排気ガスによる健康被害などなどである。横断歩道橋については年寄りや障害者が渡れないというさらなる好ましくない派生効果の指摘も付いている。
 一般向けの本なので数字を極力排除して読みやすくしてあるのは、数学科出身の宇沢先生が本気で数式を出したら読めないものになるという編集者の親心のせいだろう。この社会的費用が計算する人によって大きく異なるのは、何をそこに含めるかに違いがあるためだが、社会的費用を無しとする見解がないのは、このような考え方が誰にも受け入れ可能であるからだ。
 40年を経て述べてあることが全く色褪せないのは、宇沢理論が正論であるとともに、交通事故死の減少を除けば40年後の世の中が良い方向に目に見えては変わってないためだ。この指摘は宇沢本の粗探しをしようなどと大それたことを企てるわけではなく、なぜ世の中はこうも変わらないのかという素朴な疑問による。
 ロンドンは産業革命以来1950年代までスモッグに悩まされ、東京は1970年代まで煙だらけで、北京は現在をPM2.5で悩まされている。そうなると分かっていても防げない点を疑問にもつのである。歴史学や文明史学といった領域ではとっくに解決済みのことかも知れぬが、どうしてそうなってしまうのか私は学校では習わなかった。
 宇沢本は読んで最初のうちは数理経済学の講義を受けているような気分になったが、自動車社会の欠点を指摘するに連れて急速に経済学を離れて宇沢先生がもつ義憤を感じるようになったのは自分だけだろうか。ひょっとしたら宇沢先生はそもそも自動車が嫌いなのではなかったろうかと思ったりもした。好きだったのが嫌いに変わったのでもよいが、本当のところは分からないので、近所の家の亡くなったご主人が学生時代にラグビー部でご一緒だったと聞いたことがあり、奥様に一度訊いてみたい。
 焦点のない話を続けているのを自分でもどうかと思うのだが、高次脳機能障害と運転免許の課題が浮上してから地方の人間は自動車無しでは生きて行かれませんという訴えがどんどん強くなっていて、二律背反のように自分の頭の中でこんがらがっているためだ。それは、地方でどのようにして公共交通機関はどんどん切り捨てられたか、などという半世紀レベルの短期間のできごとの検証で済むようなことではとても追いつかない、文明に内在する不可思議を改めて思い起こさせるからだ。
 自動車には、発明や技術革新の背後に必ずある人類がもつ欲を見ない訳にはいかない。役に立つものを発明することも欲であり、それを使うことも欲である。動物にはこれがないから人類に特有の性質だろう。発明品で役に立つという利点だけのものがあっただろうかと自問してみる。たまたま社会の時間に習った江戸中期の千歯扱き(せんばこき)という脱穀装置を思い出したので調べてみたら、この画期的な装置が出現、普及し、それまでの稲穂から籾を剥がす面倒な作業がいっぺんに簡便になったとある。その反面で、それまで季節になると箸で籾を穂からむしる作業に駆り出されていた未亡人に代表される経済弱者から貴重な臨時収入を奪ったともある。こんな今日的にシンプルに見える道具でもそんなことが起きるのだと思いながら、つい30年前にもワープロの出現とともに和文タイピストという職業が消えたことを思い出した。
 有機械者、必有機事。有機事者、必有機心(荘子・外篇)。機械あれば必ず機事あり、機事あれば必ず機心あり(便利な機械ができると、何事もそれを前提にものごとが始まる、そのものごとを前提にする日々が続くとそれ無しにはやっていかれない依存する心になってしまう)。これは一節だけを抜き書きしたに過ぎず、荘子の論述はさらに続く。2,500年前にすでに決着が着いていたようだ。因みにここで言う機械は、はねつるべである。(2015年2月3日)

第43回 上海バンスキング
 渋谷や銀座で自由劇場の公演を見るのは大きな楽しみだった。串田和美の演出もさることながら、中心には常に吉田日出子がいて、それを見るだけで良かった。吉田がクラリネットの呼びかけに少しだけアヒル口にして微笑めば、舞台の隅々まで和やかな空気が流れ、そこに少し熱気が加われば、あとはあれよあれよという間に舞台を笑顔が満たし、観客も一緒になって笑い返す。その最たるものが「上海バンスキング」であり、それは歌手吉田日出子の誕生でもあった。「りんごの木の下で」を歌う頃には満足感だけが劇場内に広がる。
 もともと上海バンスキングは明るい物語ではない。そもそもこの題名を訳せば上海の前借り野郎たちぐらいになろうか。かつて上海にあった租界はそんな外国人の吹き溜まりのようなところがあった。北京にあって上海にないのは清朝である。大清時代の上海で今日に残るのはロンドンをも思わせる重厚なビルが埠頭に沿って立ち並ぶ外灘(ワイタン或いはバンド:キーボードで「わいたん」と入れたら漢字表記がぱっと出たことに少なからず驚いた)の偉容と滙豐銀行(HSBC)である。もうひとつ挙げれば上海料理であろうか。北京ダックでもなく、麻婆豆腐でもなく、点心でもない無国籍の料理がやがては、というよりすでに世界のスタンダードになっているともいえる。よって康熙帝は上海を知らない。
 今や上海は在外日本人が最も多い都市であり、その数は10万人を超えるという。北京や西安のような歴史遺産がない上海では、人々は過去を振り返ることもなく、未来だけを志向して生きている。吉田日出子が過去の、1930年代の上海を舞台として歌い踊った役柄は吉田のはまり役であり、それが二度と帰らざる過去のことになろうとしている。
 そのセリフが覚えられないと世上に訴えたのである。途端にこのHPへのアクセスカウンターがスパークしたのは羽生結弦君の比ではなかった。空前絶後の極値を示した後、急速に再び元の数値に戻って行った。その著書によれば記憶障害、注意障害、遂行機能障害、社会的行動障害を挙げて高次脳機能障害を定義した後、脳に萎縮がなく前頭葉にキズがあることから認知症ではなく高次脳機能障害であるとした。その是非はともかく、吉田日出子の舞台を今一度甦らせたいのである。今一度見たいという気持ちと、それでどんなに世の中の人が勇気付けられるだろうという気持ちが交錯するのである。(2014年12月22日)



第42回 羽生結弦君
 このHPのアクセス数は、日ごとに集計し、さらには開設以来のグラフにまで昇華されることになっている。
さて11月10日月曜日のアクセス数は普段の2倍になり、これまでの最高記録を圧倒的な数値で塗り替えた。翌日もやや数を減じたもののなお高値を示した。報告を受けても読み解けなかったのが残念だが、担当者は即座に前々日の羽生結弦君の頭のケガを理由に挙げて説明してくれた。
 このHPのアクセス数は土日は目に見えて低下するところから、低下分は専門職の方々からのアクセスであろう。すると羽生君の事故から1日遅れて月曜日にアクセスが急増したことは、専門職の方々の関心が高まった結果と言えようか。そうだとしたら何に関心をもたれたのだろうか。
 羽生君が頭を打ってから、なお競技を続けたことについてはすでにマスコミ報道に多くの見解が示されている通りで、あらためて何かを述べるものではない。そもそもスケートのみならず世界大会で入賞するようなトップアスリートと呼ばれる人たちの研ぎ澄まされた志向を私のような凡俗が忖度することには限りがある。
 このHPにアクセスした専門職の方々の知りたかったことは普通の人たちがスポーツで頭を打ったときにはどのように対処したら良いのかということだったに違いない。これが重篤な事例であれば迷うことがないが、羽生君のようであったらどうするのか迷うのである。そのような局面での医学的判断は関連諸学会の尽力により、近年目覚ましく整備された。救急の場面のみならず、繰り返しの損傷を防ぐ手立ても考えられ、周知も進んでいる。
 それでも現場担当者が迷うのは、頭を打った競技者が競技続行を訴える場面でである。外国のことは知らないが、日本人に深く根差した根性を問い、そこに美意識を求めることと、それではチームに申し訳が立たないという意識を前にして、どのように説き伏せるか自信のある人は多くない。元来、良いことをしようとするのを止めることは、それが何事であっても楽ではない。
 この1年間、国内の学会で目を惹いたのは頭部外傷とタウオパチーの関連に関する報告が多くなったことである。日本神経学会では台湾からまとまった報告があった。頭部打撲を経験した人は、長い年月の後にアルツハイマー病のような蛋白異常が脳の中で生じることがあるという内容である。
 繰り返しの頭部打撲で脳に変性が生じることはボクシングを例に取り以前から良く知られていたが、最近では1回限りの打撲でも重症例であればタウオパチーが生じることがあるのではないかという議論がなされている。(2014年11月18日)

第41回 新所沢駅
 所沢では新所沢のことを「しんとこ」と呼び、国立障害者リハビリテーションセンターのことを「リハセン」と呼ぶ。そのリハセンからしんとこの駅へは点字ブロックが延々と続いているので、晴眼者にも有用である。リハセンの門前で、その点字ブロックが始まるや最初に出くわすのが長大この上ない横断歩道橋であり、車いすで上り下りが可能なようにスロープを優先して設計していることから、当然傾斜は緩やかであり、その長さは普通の横断歩道橋の10倍ぐらいはあるように見える。上っていくと脇に植えられた泰山木の大木と同じぐらいの高さになり、季節になると手の届くところに花が付き、得も言われぬ芳香が漂う。
 その点字ブロックである。視覚障害者向けに考案されたことは言うまでもなく、階段は階段で一番端のところに赤と黄色を半々にしてそれを黒で囲んだシールが貼られていることに気付いた方はおられようか。弱視の人にとって階段の段差がうまく確認できないので、このシールを貼ることで階段上の事故を防止している。
 一体に駅の構造は複雑で、そこでは無数の反響音がこだますることで、あらぬ方向にあたかも壁があるような音響上の錯覚を生じることになる。晴眼者にそのようなことを言っても理解は得られないが、生来の盲人ではこれがとんでもない事態を引き起こすのは、日常反射音を頼りに障害物への距離を測っているためだ。これが阻害さるとホームからの転落につながる。点字ブロックの有用性は言うまでもない。そこでしんとこの駅はバリアフリーという観点では良くできている。盲人や車いすの者が毎日電車通勤しているのは日常風景であり、建物というハード面ばかりでなく、駅員にとって障害者が通勤するのは当然であるという認識が醸成されており、あるべき姿といえる。
 制限因子という考え方があり、障害者のための用語ではなく、広く物事を科学的に分析しようとするときの考え方のようなものである。これを説明するのに樽の話が用いられる。樽は木の板を十数枚組み合わせて作るわけで、当然その中に入る水の量は木の板の高さ分だけということになる。ところが1枚だけ丈が短かったとすれば、その丈までしか水を入れられなくなり、この板の丈が制限因子ということになる。もし丈の短い板が2枚あれば、そのうちのより丈が短い方の高さまでしか水が入らなくなり、こちらが制限因子になる。そこでこの制限因子となっている板の丈を直すと、残りの1枚が制限因子となってくる。
 公共交通機関を始めとして、公共施設のバリアフリー化は急速に進んでいる。駅のホームドアはどんどん設置場所が増え、しんとこの駅では3ドア車輛と4ドア車輛のために、その度ごとに開口場所を変えるホームドアの実証実験も行われた。さて高次脳機能障害者にとって交通機関のみならず建造物の使い勝手はどのようなものだろうか。見えない障害というものはこの点でもなかなか見えにくいのである。身体障害という1枚の板が丈を延ばして、まだ高次脳機能障害という板が丈の短いままでいるかどうかなお検討の余地を残している。ただし、どの板が低いかは優劣を語るものではない。(2014年10月28日)





 

過去のコラムは第1回~第17回こちら・第18回~第31回はこちら・第32回~第40回はこちらです。