〔随 想〕
“豊かさ”考
更生訓練所 理療教育課長 江口耕蔵



 昨今思うことの一つに、「たくさんあることが豊かか?」という ことがある。世間には車があふれ、食べ物があふれ、情報があふれて いるが、これで我々の生活は、いや、人生は豊かになったといえる のだろうか。車があふれた結果、交通事故で死亡したりケガをする 人が増え、食べ物があふれた結果、肥満や生活習慣病で苦しむ人 々が増えた。
 では、情報があふれた結果は、どうなったのだろうか。IT革命 によるインターネット、パソコンや携帯電話の普及により、世界中 の情報がほとんど瞬時に入手できるようになったのは事実である。 だが、それが人を裕福にしたのだろうか。
 ちなみに、広辞苑によると、「裕福とは、富んで生活のゆたか なこと」とある。では、「富む」とはどう定義しているかというと、 「富むとは豊かになる。」という。そして、「豊か」とは、「満ち 足りたさま、不足のないさま、十分で余りあるさま」という。 だとすると、情報は満ち足りているようだから、豊かであり、 富んでいる。したがって、生活がゆたか(裕福)であることとなる。
 しかし、すべての情報が生活を豊かにするとは限らないと思う。 有益な情報も、有害な情報も人を選ぶことなく、すべての人に容赦 なく降り注いでくる。そして、その有害な情報が人を悪へ、堕落へ、 犯罪へと導いてしまうことさえある。こうなれば、もちろん、情報が 生活を豊かにしたとはいえない。したがって、我々には降り注ぐ 情報を取捨選択する能力が必要となる。そして、取捨選択するには、 理性と知性と教養と勇気が必要となる。
 本末転倒で遅きに失するかもしれないが、情報活用教育をそれなりの 時期にしっかりと行わないと人間が人間、すなわち相手の気持ちや立場 を考えながら人と人の間に生きる生き物から、自分のことしか考えない ロボット化した生き物になってしまうのではないかと憂慮するのは思い 過ごしであろうか。
 ところで、これとは反対に、正しい情報がない場合や、誤った情報が 流布する場合のことも考えてみよう。
 半世紀以上前のわが国の軍国主義時代を思い出すまでもなく、つい 最近の北朝鮮拉致問題やイラク戦争における報道情報をみると、情報の なさが正しい判断を誤らせ、人々を混乱、混迷させ、結局は不幸へ導く こととなったともいえるのではないだろうか。また、これらの問題を 考えるとき、いかに真実の情報であっても、それを正しく判断すること がいかに大切かも思い知らされる。そして、その判断は、権力への恐怖 や屈服によるものであってはならないことは言うまでもないが、現実を 見据え、何が関係者を、国民を、そして人類を幸せにするのかを熟慮して 行うものでなければならないと思う。
 さて、一方情報の提供者についても考えてみよう。ひとり一人へ郵送に より宣伝や案内を送付する時代から、キーボードをポンと押すだけで何千 何万の人々へ情報を送ることができるシステムは、提供者にとっては どんなにか便利であろう。しかし、受信者にとってはどうであろうか。 このことを身近な職場のことで考えてみよう。
 私の机上のパソコンにも毎日何通かのメールが飛び込んでくる 。開いて読んでみると、その中には私にとっては不必要な情報もあるが、 読んでみなければ分からない。しかも、それが同じ事務室内やセンター内 であることが多い。ある人は送っておけば文字として残るという。しかし、 同じ時間内での情報量を考えると、話すと聴くは同時進行であるが、書く と読むは、時間差が必要である。つまり、単純にいえば、2倍の時間が 必要である。つまり、その情報が不必要な人にとっては事務効率が半減 したことになる。文字は、残す必要のある人には大切なものであるが、 必要でない人には邪魔なものである。また、話すという手段は必ず相手に 通じるが、メールは相手が読んでくれなければ送った人の行為は無駄と なり、事務を効率化するはずのパソコンが、事務効率を低下させてしまう ことになる。もちろん、本当に必要な情報を電子データ化することは、 いろいろな点で効率的であることはいうまでもない。
 したがって、使用する者は何を電子データ化する必要があるか、何を 誰に文字で(メールで)伝える必要があるかを今一度考え直してみる必要が あるのではなかろうか。同じ職場内の人に、ましてや隣の机の人にメールで 意思や用件を伝えるような職場環境がほんとうによい環境といえるだろうか。 特に、人を相手にするセンターのような職場では、「顔を見ながら話を聴く、 する」ことの大切さを忘れないようにしたいと思う今日この頃である。