〔随 想〕
多様性と創造性
研究所 福祉機器開発部長 諏訪 基



 生態学によれば多様性が生命体の種の保存にとって重要な要因 であることを示す多くの証拠が得られています。動物界や植物界 では、同じ種の個体が増えて生態系が単一の種に占拠されてしま うと、種としての勢いが衰えてきて、場合によっては絶滅する事 さえあるようです。普通は複数の種の間の均衡を保つ何らかの 制御機構が作用して生態系が保たれているのでしょう。自然界の 不思議な知恵の存在を感じさせられます。多様性が満たされて いるとそれぞれの種が世代を超えて存在する可能性が高まる だけではなく、新しい種の出現が期待できます。これにより さらに多様性が増すことになります。

 研究を進めていく上で、この多様性の概念は今や不可欠なもの であるとの認識が広まってきています。その一つの側面は専門 分野の多様性です。世の中が必要とする技術が、従来の学問分野 の枠を越え、むしろ複数の学問の境界領域から役に立つ技術が 生まれてくる事例が増えてきていることも一因かと思います。 例えばゲノムの世界は生物学と計算科学の融合により大きく発展 してきていますし、ナノテクノロジーと分子生物学の融合は新し い機能を持つデバイス技術を生み出しつつあります。従って、 新しい分野での社会貢献を目指す最近の研究組織は、基本的に 専門分野の多様性を備えた研究環境作りを目指します。
 多様性のもう一つの側面は価値観の多様性です。価値観の 多様性は、研究現場を活性化し研究者の独創性を引き出すために 重要な要因でありますが、多様な価値観を受け入れる研究環境 を実現することは、想像以上に難しいことのようです。その理由 として二つの仮説があり得ます。一つは日本社会に根強く存在 する横並び的な価値構造からくる多様性を押しつぶす圧力であり、 もう一つは科学者の性からくる研究者集団が持つ特質によるもの です。我が国の場合この二つが相乗作用を起こしていて欧米諸国 と比べて厳しい状況にあります。
 「出る杭は打たれる」という日本社会では、仲間が生み出す 独創的な発想に高い価値を置くことを期待するのは無理かも 知れません。独創的な発想は他との差を認め合うことから始まる からです。20年ほど前にスタンフォード大学のW.ミラー教授が ズバリ指摘しておられたのが印象的です。つまり、「日本には 独創性を持った若者が少なくないが彼らが日本の社会に受け入れ られてソフトウエアの世界で活躍できるようになるには、日本の 社会が彼らを受け入れるように変革する必要がある。それには まだまだ時間がかかるので、アメリカは当分の間優位を保つこと が出来る」と。その後、少しずつ変化の兆しが現れ始めている ような気がしますが、まだまだ不十分です。
 2番目に挙げた科学者の性に起因する仮説は必ずしも我が国 の科学者に限定されるものではありません。自分自身の研究を 進める上で科学者は自分の理論を取り巻く価値の多様性には 元来無関心だという仮説です。科学者は単純を好みます。 研究対象の自然界は複雑で多様な状態を示しますが、科学者は 基本的にはそれを出来るだけ単純で統一的な理論で説明しよう と腐心する性癖を持っています。従って思考は常に複雑から 単純へ向かいます。これが多様な価値観の受入に少なからず 障害になっていると考えます。例えば物理学者は自然現象を 説明する場合に時計は一つの方が美しいと考えていますから、 一般的に物理法則に現れるは時間のパラメータはtという 一種類のものしかありません。この考え方は、動物学者から 見るとはなはだ不合理のようで、動物学者の本川東工大教授が、 「ゾウの時間、ネズミの時間」(中公新書)という著書で指摘 しておられます。ゾウの寿命はおおよそ百年、ネズミの寿命は 数日という事実で、ネズミより長生きのゾウの方がえらい、 ということになってしまいますが、実はそれぞれの一生の間 に心臓が打つ鼓動数を調べてみると両者はほぼ同じだそうで、 従って、一生という尺度で両者を比較する方が公平な評価に なるということで、ゾウの時間、ネズミの時間を提案して おられます。動植物の場合、時間軸に多様性を導入することに より新しい事実が見えてくるようですから、この考え方は 人間を対象とするような学問領域、さらには後で述べる 評価作業などでは大いに参考になるのではないでしょうか。

 さて、近年、科学技術の重要性への社会的認識が我が国でも 急速に高まってきて、研究現場では研究予算面でもまた制度面 でも研究環境が改善されつつあります。特に研究所の独立行政 法人が進められ、研究への基本的姿勢の考え方に変化が起きて います。一番大きな点は、研究現場の主体性を尊重する姿勢です。 一方で、主体性を認めた見返りに結果責任をしっかりと追及する という管理手法が採用されていますので、目的にかなった研究 が効果的に実施されたかを評価するシステムの整備が補完的に 進められています。研究の方向付けに大きな影響を及ぼす評価 システムですが、実は我が国としては産みの苦しみを味わって いるところと言えそうです。
 研究開発の使命は、知恵を生み出して成果を社会に還元する ことに他なりませんので、研究組織としては、社会が必要とする 知恵を人より先んじて生み出し、世の中が必要とするところへ 成果を適用することを確実なものとするために、他と違った 知恵の卵を生む人材を育てようと真剣な取り組みが進められて います。新しい分野で独創的な技術の芽を生み出すためには、 境界領域の研究の展開が可能で、価値観も多様性を備えた創造的 な研究環境の構築が大きな鍵になります。それにも増して多様な 視点を備えた評価システムの構築に成功するか否かは、今行わ れている研究開発システムの見直しの成否を左右すると言っても 過言ではなさそうです。共通の時間軸の上で寿命の長さを比較 することがゾウとネズミの正当な比較評価を歪めたのと同じこと を、研究の評価に持ち込むような誤りをしないように科学者自身 が十分に注意しなければなりません。評価作業は評価を受ける 集団の価値観を形成するという作用を持っていますので、独創性 を生み出す必要条件としての多様な価値観を持った研究集団の 育成の観点からも、評価そのものが多様な軸で行われなければ なりません。

 とかく横並び意識の強い我が国の社会構造の中で、多様性を 容認する環境を作る努力を続けることが大切です。身近なところ から意識の変革を起こすべく、先ずは日々の活動の中で他人との 違いを認め合うこと、さらには、同じ集団の中で、他人と違って いることで好ましいこと、独創的なことを積極的に認め合う コミュニティを創ることから始め、創造性を育てる多様性の必要 性の認識を共有できる輪を広げることこそ、今進められている 科学技術研究開発推進への取り組みの第一歩と考えます。