〔随想〕
小銭が良い
研究所障害福祉研究部  我澤 賢之


 早朝4時半、私はパリ・シャルル・ド・ゴール空港に到着した。
 夜明け前、秋の空港は暗かった。今降り立った我々と、黙りこくった数名の空港職員のほか、 人影はない。誰もが口を閉ざし、カツカツと靴の音だけがホールに響く。それにしても寒い。 コートは羽織っているものの、どうにも肩と腰が冷える。すこし風邪でもひいたのだろうか。 私は咳こむ口を手で押さえながら、肩をすぼめるようにして地下鉄の空港駅に向かって歩いた。 パリの空港は大きく、歩く距離は長い。
 その日―――10月19日から翌々日21日にかけて、ベルギーはブリュッセルで 「情報通信技術分野政府調達のためのアクセシビリティ要件に関する国際ワークショップ」 が欧州委員会の主催で開催されることになっていた。情報通信技術分野の政府調達やその種の 技術を用いた政府サービスの提供において、アクセシビリティをどのように確保し、 高齢者・障害者にとって使いよくするにはどうしていけばよいかについて、欧米を中心とした 各国の取り組みについて多数の報告がなされるというものであった。これは面白い。 9月末にその話を聞いた私はすぐさま行くことに決めた。行くことはすぐ決めたものの、 その旅程を決めるのには迷った。行く時間があまりない。さらには、そのワークショップ 出席が研究費支出を伴わない研究集会参加であった。つまり費用が自腹なのである。 躍起に行き方を物色しているところ、ちょうど成田−パリの航空便とパリ−ブリュッセルの 鉄道の組み合わせで、初日当日早朝に現地入りし、最終日ワークショップ終了後その足で ブリュッセルを出発できることがわかった。現地宿泊日数と宿代を切り詰めた私は、 ワークショップの日が来るのを楽しみに待ち、そして今、ついにパリまで来たのだった。
 空港駅に着いた。地下鉄でパリ市内に出たあと、そこから国際列車タリスに乗り ブリュッセルへ向かう。タリスの切符は、すでに手元にあった。ブリュッセルにおいて 十分移動の時間を取ることができるよう、早めの列車の指定席を日本で購入しておいたのだ。 私は、もうその日の運行を始めている地下鉄に乗ろうと切符売り場に向かった。 が、売り場が閉まっている。ならばと、切符自販機を顧みた。運賃7.85ユーロ(約1000円) だという。それはいいのだが、よく見るとお札の投入口がない。どうもお札ではなくコインが 必要らしい。が、コインの用意などない。日本からユーロは用意してきたものの、 すべてお札である。悪いことに、時刻が早いため両替できそうなところや、コインのおつりを くれそうなお店がまったく開いていない。一応、切符自販機はクレジットカード対応のよう だったけれども、手持ちのVISAカードが通らない。見れば、私とは別に二人連れのおっちゃん 日本人客もまさに同じ状況に面している。彼らのカードもだめだ。
「おや、あんたもか?」
「はあ、困りましたね・・・」
とにかくコインが必要だ。駅のベンチで電車を待つ人々に片っ端に声をかけて、フランス語は 皆目わからないので英語で、両替お願いできません?ときいてみるが、みんな小銭を 持っていないという。考えてみれば、つぎつぎと地下鉄車両が駅に到着するなか、 そこに座ってなにかを待っているというのは、つまり私と同じ状況なのかもしれない。 とまれ両替はできない。お札でなら運賃の何倍もお金を持ってきているのに。 周囲でそろそろ売店が開かないか走ってみて回るが、シャッターは閉まったままである。 いっそ、地下鉄自動改札機の下を潜り抜けて、強行突破しようか。でも、公務員として それはまずかろう・・・。あれこれ迷うなか、確実に時間だけは経っていく。 あと、3分、2分、1分・・・。
ついに、事前購入したタリスの時刻には、間に合わなかった。

 結局、売店が開いたあとコインを入手した私は、あわてて地下鉄に乗った。 パリ市内の駅では、切符の払い戻しを申し出たものの、それはできません、の一言に 交渉を粘るゆとりもなく、予定よりも遅いタリスの切符を買いなおした。70ユーロほど (約1万円)要った。7.85ユーロばかりの小銭がないばかりにこんなことになるとは。 いや、こんなことなら前日着にしとけば・・・金額の損失もさることながら、 それよりも初日早々の失態に、なにやら打ちひしがれてしまった。目の前に座る、 若いお母さんに連れられた小さな金髪の男の子が、絵本を見ながら楽しげに ばたついているのを、ぼおっとして眺めていた。
 ブリュッセルに着くともう時間はない。荷物によろめきながら、猛ダッシュである。 地下鉄に飛び乗り、EU委員会本部向かいにある会場に向かった。



朝のEU委員会本部


 実際出席してみて、今回のワークショップは非常に興味深かった。印象として、各国とも、 まだ情報通信技術分野の公的利用に関してアクセシビリティを確保するための手法を模索している 段階だけれども、いくつかの重要なキーワードを知ることができたし、また現地で何人かの 専門家の方から話を伺えたのも貴重な体験だった。あれこれあって、費用は予想以上に 高くついたものの、その元を取るだけのものを受け取ることができた充実した3日間だった。 紙屑となったタリスの切符の無念を晴らすためにも、ワークショップ参加の成果を今後の 研究活動に活かしていこうと思う。
 あと、今度外国に行く機会があったときには、しっかりコインをかき集め、忘れないように ジャラジャラ持って行くことにしよう。