〔寄稿〕
津山名誉総長との思い出
日本リハビリテーション看護学会会長
落合 芙美子(初代看護部長)



 2005年2月12日午後「巨星落つ」の一報で偉大な指導者、津山直一先生を失った喪失感 で私はただ呆然とするばかりだった。出会いを得て26年。ご指導いただいた思い出は数え 切れないが、国立身体障害者リハビリテーションセンターのリハビリテーション看護の発 展に影響を受けた思い出の二つに絞り想起し思い出を記し喪心からのご冥福と感謝の念を 申し上げたい。

1 日本のリハビリテーション看護学会創設
 日本のリハビリテーション看護学会の創設は、1989年11月18日である。創設の動機付け は、1988年に開催された「第16回リハビリテーション世界会議」(RI)にあった。津山組 織委員長の下、日頃チームとして活動しているリハ専門職が、この開催に燃えている傍ら でリハ看護職だけが参画できず残念な思いをしたことに端を発している。理由を伺った津 山先生からは、リハビリテーションの世界では未だ看護が市民権を得ていないからという 答えであった。悔しい思いをエネルギーに転換し賛同を得た約300人の志をひとつに会を創 設した。第一回基調講演は背中を押して下さった津山先生に「リハビリテーション看護に期 待するもの」と題してお話いただいた。現在会員は約3,000人になり会も研究会から学会に 変わった。2002年NPOの法人格を取り少しずつ成長している。津山先生とのあの時の激論は 今も励ましとなり余韻を残している。

2 中国康復研究中心(中国リハビリテーション研究センター)での看護教育
 1986年11月の討議議事録(R/D)署名で日中間の技術協力が開始された。翌年から各専 門職の教育が始まった。通訳との打ち合わせ、教材の準備、時間調整などで先達をつとめ た二瓶・鷹野両先生の辛苦は大なるものであったと聞いている。
 看護教育は、活動の実際を見ていただくという津山先生の提案に基づき第1グループが 来日したのは、1988年11月9日から3か月、余淑華氏を団長として7名(JICA支援5名、 津山基金2名)であった。他の研修コースは1年だが、看護コースは3か月、更に今回限 りという事で実施した。ショートゴールと到達目標を明確にして最後に研修結果報告会を 開き津山先生の評価をいただいた。浴衣を着て所沢音頭の踊りから関節可動域の学習を取 り込むなど、休日も全て野外活動で日本の生活に触れてもらった。1990年3月から第2グ ループ4名。第3グループは6名(うち1名は1年間)と全員で17名の研修生の受入れで あった。
 飛行機の到着が遅れ、深夜に至るも管理部の方、そしてスタッフが夜食まで準備して待 機。研修も皆、協力的であった事に感謝している。
 1989年2月から2か月、開設を前に日中友好病院に委託教育をした看護学生60名に対す る訪中指導である。当時の沓澤婦長と落合、草野先生が担当した。
 医師によるもの63時間。看護師によるもの90時間と厳しいカリキュラム構成である。日 本から持参したダルマの目入れをして目標達成を誓った。1989年3月25日の閉講式には日 本大使館から田口先生も出席。両目を入れたダルマに感激した事が忘れられない。
 中国康復研究中心(中国リハビリテーション研究センター)のナース管理者、中間管理 職は実に優れた人達が採用されていた。214床に134名のナースの採用が予定されていたが 、現在が気になるところである。
 人が替わり事柄が変わる時は必ずや津山先生の支援をいただいた。中国語で必ず歌を唄 う。可能な限り中国語で話す。そして心から真実の愛情をもって育てる。そして人と交流 する。これが国際交流だと身を持って教えていただいた。
 日本においては、国立身体障害者リハビリテーションセンターの花々、緑の下で手作り の宴を開いた。彼女らが帰国するときの餃子パーティーの見事な手さばき、心の温かい人 達に多くのものを学習させていただいた。第二グループからは全て津山基金で経済面のご 負担をいただいた。中国のリハセンターの婦長全員に日本での研修を受けていただくとい う津山先生のご理解とご協力に甘えながら目指す目標・役割・責務について私たち日本の リハ看護関係者が多大な利益をいただいたと実感している。今頃中国リハの馬家堡飯店で はどんな夕食ができているのだろうか。さぞかし津山先生のお好きな夕陽がさし今日一日 の締めくくりの時を迎え津山先生との深い人間味のある時をかみしめていることだろう。

                                                   合掌

桜の下で研修生に熱弁する津山名誉総長の様子
桜の下で研修生に熱弁する津山名誉総長