〔巻頭言〕
日々雑感
研究所企画調整官 宮崎 隆徳



 セクハラ、ドクハラ、パワハラ…知らないうちに新語がどんどん増えていく。DV、イジメ、虐待…ニュースにのらない日はない。 「昔は良かった」なんていう人がいる。昔はケンカの仕方も知ってたし手加減というものが自然に身に付いていた、などと。それも ちょっと怪しいが確かに今日ほど紙面を賑わすことはなかった。
 昔はイジメなどなかったか、あった。イジメと認識しないイジメがあった。やる方もやられる方も難しいことは考えていなかった。 時代がイジメを神経質にした。報道があり、みんなで考えようという機運が高まりイジメを複雑にしていった。ある子は「チビ」と言 われたことをイジメと認識して自殺未遂事件を起こした。そのくらい「からかい」の範疇だろうと思ってもその子には耐えられないイ ジメとなる。ハラスメントもしかり。肩を触られただけでセクハラというお嬢さんがいる。セクハラと感じない女性もいる。要はその 人がそう感じればそうだし、それくらいどうってことないと思えばそうだと言い切れるものも多いのだ。戦後デモクラシーは過度のデ リカシーを植え付けた。放送禁止用語も増え、日本文学の危機でもある。そういう神経質な体質が子どもの教育にも響いて教室で騒い でいる子の頭を小突いたら体罰と言われ、先生稼業もやりにくくなった。
 この前、未成年者による殺人事件があったとき 「人を殺してはいけないとは教わらなかった」と犯人がのうのうと述べたというから あいた口が塞がらない。そのあと某テレビ局の若者向け討論番組で二十歳かそこらのお嬢さんが「人を殺してもいいと思っている」と 言い放ったことには心底震えが来た。とうとうここまできたか、と思ったものである。私は「人を殺してはいけません」なんて親にも 先生にも教わったことはない。言わでもがなのことだ。今の子どもは何から何まで教わらなければ善悪を判断する能力さえないという ことなのか。誰がそういう教育を望んだというのだろう。子どもに気遣い、神経質なまでに禁止用語のあれこれを教える割には肝心な ことは伝わっていないじゃないか。そして自分への言葉だけはデリケートに反応する子どもが「イジメをしてはいけないとは思わない」 とのたまうのだ。ある小学生へのアンケート調査で四分の三までがそう答えたというのだから背筋も凍る。
   大人の討論番組では「イジメは本能、優しさやいたわりは教育だ」という結論が出た。優しさやいたわりは教えなければ植え付けら れない。狭山ヶ丘高校の小川校長は「(周囲を取り巻く多くの方々の力によって)人間にしていただくのだ」とエッセイに書いておら れる。子どもは天使なんかではない。残酷で身勝手な生き物だ。放っておくとからだだけは立派で中身は幼稚な傍若無人な大人になる ことは必至だ、本能のままに。そこには社会的な秩序もへったくれもない。それが明日の日本だ。
 現代の「イジメ」は自殺か殺人にまで発展する。振幅が大きくなっているのだ。「からかい」を笑って受け止めきれない精神性の弱 さと両極にある「残忍」と一言で形容できないような残虐極まるイジメ。栃木の少年二人による陰惨なイジメ殺人事件は記憶に新しい。 人間はどこまで残酷になれるのか。記憶の奥には名古屋の少年のショッキングな首つり自殺があった。少年は父母に死を詫び、同級生 に何度も恐喝され、もう金が続かないと拙い文面の遺書を遺した。あれから何年経ったろう。当時は多くの人が涙したろうにその事件 は警鐘とはならず忘れ去られイジメは繁殖しエスカレートしていく。酒鬼薔薇事件があったとき、「少年の心に棲む悪魔」という表現 が日常で飛び交った。やがて「悪魔」は本能をむき出したまま身近に存在するようになった。
 しかし落ち込むことばかりではない。鷲宮高校の増淵竜義投手はヤクルトに入団が決まったとき「親を楽にさせてあげたい」と語っ た。この言葉は私の胸に新鮮に響いた。「親孝行」…昔は当たり前にあった言葉なのに久しく耳にしなかった。死語にさえなっている 感がある。しかし、こういう子だって21世紀に育っているのだ。首相の「美しい国」づくりは人づくりから始めなければならない。 親よ、先生よ、近所の老若男女よ、子どもを叱ろう。子どもに我慢を教えよう。慈しむ心を育てよう。子どもの視線から目を逸らさず に。来年は一歩でも「美しい国」に近づいていることを願う。