〔巻頭言〕
“死”に向く福祉機器の研究
研究所福祉機器開発部長 井上 剛伸



 巻頭言でいきなり“死”か? と、思う方もいるかと思います。が、よく言われることですが、人は必ず一度は死を経験します。にもかかわらず、その経験を語れる人は誰もいません。それだけに、“死”は興味深いものでもあり、不可思議なものであります。学院の授業で、いかに死にたいかについてレポートを書いてもらったところ、ほとんどの学生がぽっくり死にたい、と書いてきました。理想の死に方かもしれません。

 子供の頃、カマキリをつがいで飼っていたことがあります。そのうち、雌のお腹が大きくなってきて、産卵の時期が近づいてくると、なんと、雌は雄を食べ始めたでは有りませんか。もぐもぐと雄を食べる雌の姿に、“雌は、残酷だ”と思った記憶が有ります。

 次の年、またカマキリを飼いました。この年は、残念ながら一匹しか捕まえることができませんでした。そのうち、お腹が大きくなってきたので、雌であることに気づきました。産卵の時期が近づいてきて、雄がいないとどうなるのかと思ってみていたところ、なんと、雌は自分の身体を食べ始めたのです。雌も雄も、卵を産むために必死、文字通り“必死”だったのです。

 鮭は卵を産むために、川を一所懸命上ってきます。産卵場所に来ると、雌は卵を産み、雄はそれに精子をふりかけます。そしてその雄は、脳内に死を促す物質を分泌し、自殺するのだそうです。カマキリにしても、鮭にしても、とても潔い“死”の迎え方ではないでしょうか。 

 さて、人間です。デザイナの川崎和夫さんの講演で“死を直視するデザイン”というタイトルの講演が強く印象に残っています。人は必ず死ぬんだ。それから逃げず、直視したもののデザインが重要との内容だったと記憶しています。次に川崎さんの講演を伺う機会があった時に、そのテーマは“護る”に変わっていました。大きな変化だったので、なぜこんなに大きく変わったのかを伺ったところ、あのころは心臓を患って、本当に死にそうだった、それで人工心臓のデザインも手がけた。今は台頭する若いデザイナから自分の地位をまもることに注力していて、こうなったのだ。とのお話しでした。もっともな話だと思いました。

 先日、在宅医療を実践されている川島孝一郎さんのお話しを伺う機会がありました。川島さんは、ぽっくり死ぬなどということは考えてはいけない、とおっしゃられました。そんな人は滅多にいない。人は、だんだん機能が衰えていって、いろいろなサポートを受けながら、生きて生きて、そして力尽きて死ぬ生き物だとのことなのです。カマキリや鮭に比べると、なんとじたばたした死に方でしょう。

 しかし、じたばたしながら生きて生きて生きるのが人間なのです。ですから、いろいろな支援を受けながら生活を成り立たせるということは、当然のことだという認識が大事なのです。福祉機器もそのための一つの重要な選択肢であり、もっともっとその活用を拡げるべきだと思っています。ただ、今の福祉機器は、人の機能がだんだん衰えていくことを前提として、じたばたしながら生きていくことを本当に考慮しているかというと、そんなことは無いように思います。自分の機能が衰えていく、その変化を目の当たりにしたとき、人は何を考え、何に気づき、何を思って福祉機器を使うのか?そしてそのための福祉機器とはどんなものなのか?少し時間をかけて考えてみようと思っています。