〔巻頭言〕
年年歳歳花相似たり
学院長 中島八十一



 幾度か春の雪を見たら本当に春一番が吹き、今年の長い冬が終わりを告げた。毎年このような時期に古い年度が去り、新しい年度がやってくるので、卒業式や入学式は季節の話題に恵まれる。次から次へと咲く花然り、飛来する鳥や地上に顔を出す生き物然り、青天と雨の繰り返しが加わり、新人研修が過ぎて青葉が生えそろうまでは語るに尽きない季節のできごとが続く。
 梅の遅い満開を迎えたころ、理療教育部の卒業式が講堂で開かれ、日ごろは縁の薄い理教の学生と身近に接する機会となった。卒業生代表の別れの言葉は強く印象に残ったが、その一言隻句まで記憶しているわけではない。ただ彼が、学ぶことがどんなに大変だったか、それでもやりとげねばならなかったということを、自分が実際に経験したことに基づいて、それらを自分の言葉として語ったことに心を揺さぶられたのである。一緒に卒業する者の中には涙を流している者もあり、同級生にあっては一層の共感を呼ぶ挨拶だったのだろう。祝福の拍手が満場に響いたことは言うまでもない。
 今年は杉の花粉の飛来が特別多いと見込まれているらしく、テレビで天気予報を見るたびに警戒が発せられ、日光の杉山で花粉が山を覆う様子が放映されることもある。日常の挨拶として、今日の天気を云々するのと同じくらいに花粉症の状態を尋ねることも普通のことになった。くしゃみのひとつでも出ようものなら、花粉症ですかと人は尋ねる。風邪ですかとは訊かない。
 学院の卒業式が学院の講堂で開かれた。良く訓練された集団がなす式は、粛粛として乱れることがなく、清々しい。卒業生代表の別れの言葉も聞き入るものがあった。体操の選手だった者が転落して障害者となり、そこから気を取り直してリハスポーツの指導者を目指すことになった自らの経験を軸におき、卒業生を代表する言辞を述べたことはひたすら人の心を打つ。感動ばかりではなく、誇りである。謝恩会が始まり、会場の明るさは射し入る光のためではない。あふれるばかりの若さと若さがもつ未来のためであり、行く末の困難など微塵も感じさせることはない。多分、時代はこうした若者によって動かされるのだろうと納得する。
 今年も黄砂がやってきた。最上階から見る地平線間際のかすみだけでは、果たして黄砂かどうかは分からない。うっすらと車の上に積もって初めてそれと分かるのである。彼の地では楊柳のにこげとともに春を告げる風物と聞くが、届くのはただ砂ばかりである。
 年度末となり行く人来る人の消息が知れるようになると、にわかにあらこちらで片付けが始まる。再び会うであろう人にはしばしの別れを述べ、この日を限りとして去り行く人にははなみずきの会での再会を約して別れを告げた。リハスポーツの先生がいなくなるんだって、と困ったように肢体に不自由をもつ青年が、昼間の食堂でテーブルをはさんで仲間にささやく。
 桜の枝の先にちらほらと五弁の花が見え始め、すべてのつぼみがふくらんで並木そのものが色を帯び始めた。学院にも更生訓練所にも新しく学生がやってくる。新人職員もやってくるだろう。彼らがやってくることを満開の桜が彩り、センターを新しい学生と職員が彩る。