〔巻頭言〕
「無邪気とリハ工学」
研究所福祉機器開発部長  井上 剛伸



 フィンランドへ向かう飛行機の中で、三島由紀夫を読んでいる。三島由紀夫の小説を読むのは初めてである。こんな小説を書く人は、なんと無邪気な人なのだろうかと思う。もう少し、読んでいたいと思ったのだが、そろそろ北極海の上にさしかかる頃と思い、巻頭言を書き始めている。
 人に邪気が入るのは予想以上に早いものである。息子が1歳になろうかという頃、台所を仕切っている柵を無邪気に揺すっていた。以前、柵が壊れるからやめるように言っていたのだが、このときは何の気なしに眺めていた。網状になっている柵を、両手の指にしっかり絡めてぎゅっと握りしめ、本当に楽しそうに体ごと前後に大きく揺すっている姿は、まさに無邪気の一言に尽きる。いつまでやるのかと、じーっと眺めていると、突然動きを止めた。ちらりとこちらに視線をやったと思ったら、ぱたと手を網から外し“気をつけ”のような姿勢になった。そして、下を向いて何ともばつの悪そうな態度をとったのである。無邪気の終わりである。
 三島由紀夫を読みながら、リハ工学を考える人はあまりいないに違いない。読みながら、20年近く前に行ったリハ工学カンファレンスを思い出した。日本リハビリテーション工学協会が主催するカンファレンスで、福祉機器を主題とするものとしては当時日本で唯一のカンファレンスであった。各地のリハビリテーションセンターや(今は無き)東京都補装具研究所などの多くのリハエンジニアと言われる人たちや、ちょっと変わった医療関係者、障害当事者の方々など、いろいろな人々が集い演題発表やディスカッションが行われていた。とにかく、“熱い”というのが印象であった。障害と工学が結びついた新しい分野であり、複雑でよくわからないことが多い分“われわれがやらねば”という何ともいえない熱気があふれていた。その反面、“何でもあり”というような、はちゃめちゃな感じも兼ね備えていた。そこにいる人たちは、みんな無邪気に見えたことを覚えている。あれから20年、リハ工学も大きく発展し、私のリハ工学人生もそろそろ成人を迎えねばと思っている。ただ、少しの寂しさが頭を持ち上げていることも確かである。三島由紀夫に似た感情かもしれない。大人になることは、いろいろなことを枠に閉じこめ、多くのことを失っていくことのように思う。いつまでも柵を揺すっていてはいけないのである。しかし、リハ工学のリハ工学たる所以は、この無邪気さにあるのでは無いだろうか。研究手法は確かに確立され客観的なデータを基に、多くのことが確かめられてきた。しかし、その部分だけに注意を奪われ、物事の本質をしっかりとらえることを忘れがちになっていないだろうか?現場に学び、現場に還元するリハ工学(福祉機器)研究をもう一度考え直す時期であろう。
 2009年8月第24回リハ工学カンファレンスを当リハセンターで開催する。無邪気さへの回帰ではなく、モラトリアムでもなく、原点をしっかりとらえつつ、大人としてのリハ工学をもう一度考え直せればと思っている。
 気がつくと、三島由紀夫が自ら命を絶った歳になっている。