〔巻頭言〕

論文を書くこと

病院長 赤居正美



 論文を書くことは我々の日常活動に深く入り込んでいる。患者に対する診療から得た新たな知識を、対外的な情報発信としなければならないのであるが、大切な事柄がいくつか挙げられる。
 論文を書くということは、自分の研究を公表するということになるが、有名なワトソンとクリックのノーベル賞受賞論文はわずか2ページであった。論文は科学的コミュニケーションの道具であるから、論文の価値は長さではなく、その内容にあることはいうまでもなかろう。ただし自身が論文を書いたことがあると、他人の論文の読み方に大きく影響する。楽器に触ったこともなく演奏の批評をするようなもので、著者の苦労が分からずに、的が外れてしまう危険もある。その逆に、どこを注意して読めばよいのかを理解していれば、自分が論文を書く際にも適切な配慮が可能になる。良い論文がいきなり書けるわけではないが、日々の活動の中から何らかの知見を得れば、それを医療に携わる同業の人々に広く知ってもらう努力を怠るなということになる。
 論文を含めて、文章は「コミュニケーション」であるとすると、一体誰に対する会話なのかが、いつも意識されていなければならない。文章を書くことは、つねに読む相手を想定することになり、誰に読ませるのかに応じて書くべき形式・内容は自ずと変わってくる。ここでは学会誌などでの論文発表を念頭に置いているので、その中には知見が偏った独善に陥らないように、また誤解に基づいた誤りなどが混じらないように、peer reviewとして同業の人々から査読を受けることが含まれる。基本的には、最も専門性の近い人々に評価を受けるものである。
 つまるところ、著者と読者間に共有知識があるかどうかで論文の長さと内容の細かさが規定される。いいかえれば、前提としての知識を読者全員が持っていれば前置きは必要なく、いきなり問題点・作業仮説から書き始めることが出来る。いわゆる学会というものが成立してから、論文はそうした前提で書かれるようになってきたので、特定の領域についての関連知識は当然持っているものと見なされている。したがって、専門分野以外の人間にとってはほとんど理解不能な状態になることがよくある。マスコミ、新聞がその代表であるが、残念ながら非専門家であり、新聞記者の書いた記事の中には脊髄と脊椎の区別の付かないものもある。
 かつて、論文といえば長大なものであり、例えば、19世紀のダーウィンやパスツールの論文は今日、一冊の文庫本として刊行されている。医学論文は基本的に短いものがよいとされるが、近年の生命倫理などのテーマで社会科学や人文科学の先生とお付き合いすると、原稿用紙100枚以上ないと言いたいことは言えないとされることもある。いまでも文科系の論文は書籍の形となっていることが多い。育った背景、お手前の違いを痛感するのではあるが、その学問領域の知識蓄積・交換がどの程度まで速報性を伴った論文発表という書誌(電子)情報に因っているかという問題に絡んでいるのである。
 医学に代表される自然科学の領域では、コンピュータ技術の進歩に基づくデータベースの構築、関連情報知識の蓄積が大規模に行われている。しかしインターネットに代表される情報知識の蓄積・交換のシステム自体は、自然科学に留まらず人文科学、社会科学にも普遍的な流れである。今後ともpublish or perish(書かなければ消えてもらう)との圧力に曝され続けなければならないのであろうか。