〔センター行事〕
平成22年度
障害者週間記念事業開催報告(1)
障害者週間記念式典
管理部企画課


 障害者週間は、国民の間に広く障害者の福祉についての関心と理解を深め、また障害者が社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に積極的に参加する意欲を高めることを目的として、毎年12月3日から9日までの一週間を障害者週間とすることが障害者基本法に定められています。この期間、国、地方公共団体、関係団体等において、様々な意識啓発などの取り組みが全国で展開されています。
 当センターにおける今年度の障害者週間における取り組みは、障害者週間記念式典の開催(12月3日)をはじめ、国リハセンター子ども体験デー(12月1日、10日)、研究所オープンハウス(12月3日:研究所主催)、ふれあいコンサート(12月15日:病院主催)、所沢市が主催する障害者週間記念事業への協力・出展(12月6日〜9日)など多岐に亘りました。
 これらの取り組みにつきましては、本号と1月号の2回に分けて連載させていただくこととし、本稿では12月3日に開催された障害者週間記念式典についてご報告いたします。
 障害者週間記念式典は、12月3日に当センター講堂に利用者・職員等を集めて行われ、日頃利用者に対するボランティア活動にご尽力いただいている方や、職場体験実習の受入・雇用など利用者の就労にご支援をいただいている事業所に対し感謝状及び記念品の贈呈が行われ、ボランティア感謝状対象者17名のうち5名、職場体験実習の受入・雇用等感謝状対象事業所12事業所のうち9事業所がご出席されました。
 式典では、まず、岩谷総長、国立職業リハビリテーションセンター塚田次長が挨拶されました。
 岩谷総長からは、国連が1981年に国際障害者年を設け、2006年に障害者権利条約を採択するまでのこれまでの歩みを振り返りつつ、今日、障害のある人もない人も等しく社会を構成する重要なメンバーであると述べられ、そして社会の一員として生きていくためには、職業的な技能を身につけることのみならず、健康を維持したり、身の回りのことを自分で出来るようにしたり、人付き合いが社会相応にできるようにすることも必要である、と同時に、「余暇を楽しむということも大切な技能の一つである、生きていく上でさまざまな苦労があるけれども、ぜひ人生を楽しむ力を付けて下さい」とのお話しがありました。


(写真)岩谷総長の挨拶

 続いて塚田次長からは、障害のある方の社会参加と言ってもさまざまな分野がある、仕事を通じた社会参加だけでなく、音楽・絵画・スポーツなど幅広い活動に親しむことも大切である、とのお話しがあり、「これからの生活において、地域や周囲との関わりの中で、様々な支援を受けながら、夢や希望の実現に向け、一日一日努力を続けられることを期待します」と挨拶されました。
 そのあと、ボランティア・事業所の方々への感謝状・記念品の贈呈が行われ、厚生労働大臣感謝状及び厚生労働省障害保健福祉部長感謝状が厚生労働省小河施設管理室長より、また総長感謝状が岩谷総長より、一人一人に手渡されました。


(写真)感謝状・記念品の贈呈の様子

 最後に、利用者を代表し、就労移行支援養成施設専門課程の日暮優勝(ひぐらし まさかつ)さんより感謝の言葉があり、「私たちは、人生の半ばで障害を持ち、慣れ親しんだ職場や環境から離れ、挫折をして、このセンターに入所してきました。訓練は大変困難で、障害を負っているため苦労していますが、ボランティアの方々や事業所の皆様が私たちの支えとなってくれていることに改めて感謝したい」と話され、「これを機に、皆さんのご尽力に応えられるよう、気を引き締め直し、早期の社会復帰を目指し、頑張っていきたい」と挨拶されました。

 式典終了後には、西武ラインズ球団の高木大成さんによる特別講演が行われました。
 高木大成さんは、1995年、慶應義塾大学よりドラフト1位で西武ラインズに入団。選手時代は「レオの貴公子」というニックネームで親しまれました。しかし、1999年以降は膝や肘など、たび重なる故障に苦しみ、引退後の現在は球団職員としてファン獲得のためご活躍されています。講演では、「夢と挫折」と題して、そのようなご経歴をお持ちの高木大成さんならではのお話しをいただきましたので、講演の内容をかいつまんでご紹介したいと思います。
 高木大成さんは、まず、自分の子供時代のこと、小学校2年生の時に父親の影響で本格的に野球をはじめたこと、バッティングセンターで白球を打ち込んだ中学校時代のこと、寮生活の中で集団生活や先輩・後輩の上下関係などを学び、またキャプテンとして夏の甲子園に出場した高校時代の思い出などをお話しされました。
 大学に入ると、当時の慶応大学は、エンジョイ・ベースボール(一生懸命やって楽しむ)ということをモットーとしていたとのことですが、チームメイトの中には、それまでソフトボールしかやったことがない人や神宮に慶応のユニフォームを着て立てればよいと考えている人もいて、チームの目標に向かっていくことの難しさをキャプテンとして痛感したと話されていました。また、全日本チームの一員として、いろいろな国に行くことが出来たこと、特にキューバでの体験が印象深く語られました。
 プロ野球を行くことに決めたのは、1994年に広島でアジア大会があり、決勝戦でチョソンミン(趙成a)からホームランを打ったときだったとのことです。プロ野球に入ってからは、過密なスケジュールの中、1997年、1998年に一塁手としてゴールデングラブ賞を受賞し、オールスターにも3回出場しました。しかし、10年の選手生活のうち、活躍できたのはわずか4年で、残りの6年間は怪我に苦しんだ、と手術とリハビリに明け暮れた選手生活後半のことを振り返られていました。
 怪我をしてからは、納得したプレイができないことよりも、大好きな野球が嫌いになったことが一番つらかったと言います。また怪我をして、リハビリをしてはじめて、不自由なく暮らせる、プレイできることのありがたみを痛感したと言います。例えば、車いすや松葉杖の生活では、ちょっとした段差が乗り越えられない、それに車椅子の目線では非常に圧迫感を感じ、怖いなと感じたそうです。また利き腕の右肘を手術したために、お箸が使えない、ハブラシをなかなかうまく使えない、背中が洗えない、といった生活を強いられ、無力感を感じたと言います。
 しかし高木大成さんは、「こうした経験は、プロ野球選手としてはもちろんマイナス要素ではあるけれども、今後のことを考えればプラスになるのではないか、と今では思っている」と話をされ、ご自身の体験を踏まえ、「今後は観客を増やすだけでなく、選手の引退後のセカンドキャリアをサポート出来るようになりたい」との抱負を語られました。また、「車椅子や松葉杖を健常者の人に体験してもらう場がもっとあってもいいのではないか。」「リハビリ施設の充実というか、私は選手だったこともあって、生活できるレベルのリハビリ施設はあると思うのですが、もう一つ上のものが、なかなかなかった。私なんかは、もう一つ上のリハビリをしたいということがありました。そういう環境を作ってもらえるとありがたい。」とリハビリ施設に寄せる期待を語られていました。
 最後にお話しいただいたのは、「どうすれば夢を持てるのか」。今は情報があふれ、インターネットなどで簡単に情報が手に入る時代で、頭で理解してわかった気になる子どもたちが多い、と野球教室などを通じて高木大成さんは感じるそうです。だからこそ、「勇気を出して、実際にやってみること、いろいろなことを体感することが大切です。」と強調されました。
 講演の終わりに、利用者を代表して柄澤裕樹さん(自立訓練)、西出沙織さん(就労移行支援)のお二人から花束の贈呈があり、盛大に拍手が送られる中、高木大成さんは講堂をあとにしました。
 今回プロ野球選手として頂点を極めたトップアスリートならではの貴重なお話しをいただいた高木大成さんに心より感謝いたしますとともに、ますますのご活躍を祈念しましてご報告の結びとさせていただきます。


(写真)高木大成さんの講演