〔巻頭言〕

遺伝的多様性

研究所長 加藤誠志



 今、世界で1000人ゲノムプロジェクトという大規模な計画が進行しています。1000人の遺伝情報をすべて解読してそれを比較しようというプロジェクトです。我々ヒトの遺伝情報は、A、G、C、Tという4塩基(文字に相当)からなる約30億文字の配列で書かれています。この一組の全遺伝情報をゲノムと呼び、我々は両親から一組ずつゲノムを受け継ぎます。昨年秋、解読の途中結果が報告されました。驚いたことに、遺伝病の原因としてこれまで知られている変異(文字が変わることに相当)を、誰もが50から100個持っていることが判明しました。病気の症状が現れていないのは、変異が片方のゲノムにのみあるせいか、あるいはこの変異以外に他の変異も病気を引き起こすのに関係しているかのいずれかであろうと考えられています。近親婚により先天性異常の子供が生まれる可能性が高くなるのは、両親から同じ変異を受け継ぐことが起こりうるからです。
 もう一つ明らかになったことは、両親が持っていない変異を子供が有しているということ、すなわち生殖細胞系列に新しく変異が生成することです。別の論文によれば、その頻度は一世代あたり50から100個と予想以上に高く、その中の約0.86個は病気を引き起こす可能性のある変異です。事実、知的障害を持たない両親から知的障害児が生まれた6家系について、両親と子供、3者のゲノムの配列を比較した論文によると、子供は両親にはない変異を有しており、この変異が知的障害を引き起こしている可能性の高いことが示されました。すなわち、この結果は、遺伝子の変異によって引き起こされる機能障害が、高頻度で自然発生していることを示唆しています。
 遺伝子の変異は様々な要因で起こる確率事象なので、偶然によって生成します。一方、この変異が原因となって、必然的にある一定の割合で機能障害が引き起こされます。すなわち、変異の生成は偶然ですが、人口に占めるある割合の人間が障害を有するのは必然となります。このような変異は生物進化の源泉でもあり、種や個体差の多様性を生み出している源でもあります。この多様性のおかげで、生物は環境変化や病気に耐え、生き延びて来ました。今後も人類を含め生物が存続していくためには、この多様性を維持する必要があります。機能障害を引き起こす可能性のある遺伝子変異を誰もが持っているのですから、機能障害を発現していようがいまいが、遺伝的多様性を持ったすべての人間が共生できる社会を作ることが必要であるというのは、ここから出てくる論理的帰結です。
 研究という視点からこの遺伝的多様性をみてみますと、新たな問題が提起されます。我々は実験を行う場合に対照群をおきますが、ヒトを対象とする実験では厳密な意味での対照は存在しないことになります。一卵性双生児以外は全員遺伝情報が異なっており、基準となる配列はないからです。このことが、臨床研究を行う上での最大の難点であり、これからの医療が個別化医療に向かわざるをえない所以でもあります。個別化医療の前提になるのは、個人のゲノム情報がわかっていることです。10年前、一人のゲノムの全塩基配列を読むのに、数年間、30億ドルを要しました。この塩基配列を読み取る技術の進歩には目を見張るものがあり、数年以内に一人のゲノムを一日で、1000ドル以下で読めるようになると言われています。誰もが自分の全遺伝情報をICチップにいれて常時身に付けておくことができるようになった時、さて皆さんはどうされますか。そろそろ考えておいた方が良いかもしれません。