〔巻頭言〕

肥前と三河

学院長 中島八十一



 豊橋は愛知県の東の端に位置し、西と南は海に面し、東は静岡県との境となる低い山が連なり、北は信州への門扉となる山々がゆったりと構える平野の中央にある。私は豊橋に生まれ、18歳まで居た。
 実家のすぐ脇に西郷石油というガソリンスタンドがあり、夏には店のおじさんが下着のシャツ1枚で訪れた車に油を入れていた。そのおじさんはもうひとつ仕事をもっていて、県境の山で石灰岩を掘ってはセメント会社に売っているということだった。高さが東京タワーの半分もないような山はどれも石灰岩でできていて、樹木の下を掘ればいくらもしないうちに石灰岩の層に当たるだけでなく、所々でそのまま剥き出しにさえなっている。小学生の頃、そんな岩の裂け目から旧石器人類の上腕骨が発見され、牛川原人と命名された。程無くして山の向う側斜面で三ケ日原人も発見された。おじさんはつるはしを持って岩を砕き、もっこを担いで山を下っているものとばかり思っていた。今は山そのものの半分ぐらいが削られ、急ぎ通り過ぎる超特急のぞみの車窓から白い岩肌が良く見える。その辺りに西郷小学校があると聞く。
 新年になりNHK大河ドラマの「江」が始まった。上野樹里演じるお江の方は向井理演じる2代将軍徳川秀忠公の正室であり、3代将軍家光公の母である。秀忠公の母親は家康公の側室の中で美貌を謳われた西郷の方であり、三河西郷氏の娘である。西郷氏は南北朝の頃に肥前にあって三河守護代に任ぜられ、本流が肥前から三河に移動した。肥前にはわずかな庶流が残った。未だ松平氏の勃興以前のことで、かの岡崎城を築いたのもこの西郷氏である。時代を下り、松平氏が勢力を増すにつれ、西郷氏は次第に三河を東へと移動し、今の愛知静岡県境に近いところに領地を定めた。松平氏との関係が決して悪くはなかったことは西郷の方のことからも推察できる。かたや肥前に残った西郷氏は南下し、ついには薩摩に至り、島津氏の配下として地歩を得た。
 西郷の方が秀忠公を生んだことにより、三河西郷氏は大名に取り立てられ、子孫の多くが親藩、譜代の家臣として取り立てられた。その中で会津藩の筆頭家老は代々三河西郷氏の末裔が務め、幕末の戊辰戦争に際しては西郷頼母が家老であった。一方官軍には薩摩西郷氏の裔である西郷隆盛がいたので、本流と庶流が思わぬ形で相対したことになる。この二人はともに己の出自を心得ていて、それゆえの書簡のやりとりがあり、明治の御世になってからも続いたという。
 そのようにして、肥前佐賀にルーツをもつ西郷氏が三河と薩摩に分かれ、なお全国に散らばったことを思えば、三河と肥前は縁がないどころかどこかでつながっているような気がするのである。このようなことを佐賀の人を前に話してみた。