〔巻頭言〕

立ち位置と身の丈

管理部長 君島淳二


 4月より管理部長を拝命しました、君島淳二と申します。とても重い肩書きに私自身の肩が凝りそうなのですが、皆様と楽しく仕事をしたいと思っております。1985(昭和60)年に一度生活指導専門職で当センターに勤務しているので、当時と変わらぬ宿直室には懐かしさを感じております。しかし、思い出に浸ることよりも皆様とともに新しい息吹に目を向けないといけないと鼓舞しておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 当センターのような人と接する仕事には、その人の個性を尊重することが大事です。この個性を別のことばで言い換えると、表題になるのではないかと思っています。その人の持っている生きる上での総合能力とでも言いましょうか。しかし、これを見極めることは本当に難しいことです。往々にして、本人すら自身の能力、可能性をわかっていないことがあり、そういう時は尊重すべきかどうかも迷うところです。思考のベクトルを上昇にするか下降にするかでも違ってきます。「二番じゃ、だめなんでしょうか?」と仕分け人は言いました。話がスーパーコンピューターの国際的競争を勝ち抜く開発費のことなのでとても奇異に映りましたが、人が頑張った結果の話であれば、だめではないでしょう。時代劇では「分際」ということばが出てきますが、これは「身分、地位」のことで、分をわきまえろ、身の程を知れなど身分と不相応なことをするなという身分制度の時のことばです。身の丈とは意味が違います。
 私が若い頃習った福祉では「障害」は克服されなければならないモノでした。障害者に初めてなった人はそのモノを受容しなければならず、多くの人は挫折から出発しました。まだわが国にはこのような考え方が根強く、たとえば、アスリートとして純粋に競技と向き合っても、必ずや挫折を経験し、それを受容したところからやがてそれを克服して今は成功したというストーリー性を要求されてしまいます。個性そのものを尊重し、相手の立場や能力そのものを受け止める、この手間のかかる課題から目を背けることは、人権を阻害することにもつながりかねません。
 障害者スポーツの生みの親であるグッドマン医師は、「失われたものをかぞえるな、残っているものを最大限に生かせ。」と言いました。発想の転換によって人の能力には可能性があることを説いたのです。当センターを利用される方々が、今までの自分とは違う自分、違う能力に気がつき、その能力を発揮できるようになったとしたら、これ以上嬉しいことはありません。「立ち位置を見定め、身の丈分を精一杯生きる。」そのような環境づくりのお役にたてるよう、それこそ私自身も能力を高めていきたいと思います。
 『起きて半畳、寝て一畳、天下とっても二合半。』このことばは、一説には豊臣秀吉が大阪城で日本全土を平定した時に言ったとされますが、定かではありません。二合半は酒ではなくて米だそうです。所詮人間とは小さく欲張っても仕方ない、腹一杯喰ったって知れたものではないか、と悟った時のことばだと言うのですが、実はその後、秀吉は朝鮮出兵を強行し将来に大きな禍根を残すことになります。悟ったはずが権利欲には勝てなかったのでしょう。さすがの秀吉も自分の立ち位置と身の丈をわかるのは難しかったようです。