〔巻頭言〕

桜咲く

学院長 中島八十一


 ある患者が外来で笑う。次の受診予定日はひょっとしたら桜が満開だろうか、そう言われて楽しみにやって来たらその通りになったと。まことに桜は会話にふさわしい。
 花見のころは寒くて、花冷えだなどと言いつつ痩せがまんで樹陰の酒宴を張るのがふつうだが、今年はとても暖かい夜が続いた。テレビで外国人が酔客に混じって夜桜見物を楽しんでいるのを見て、めったにないラッキーな巡り合わせだと言ってあげたくなった。その分、明らかに満開の日が少なく、あっという間に散り始めた。
 外国人旅行者のように、たまさかの休日を日本で過ごすようなことだと桜の季節にやってきても、その年の気候次第で空振りに終わることも少なくない。かつて自分が学んだ日本の桜を見せたくて、家族全員打ちそろってやって来たのに、何ということか全く咲いてなく、寒いばかりの名所旧蹟を回って、本国に帰ったとたんにニュースが開花を告げるといったこともあった。
 片や、日本にずっと居続けるにもかかわらず、格別の思いで桜を眺めることも、また多いだろう。数えで百歳になった母を車いすに乗せて近所の大きな桜の下まで行ったところ、ああ桜が満開だとつぶやいた。来年も見るかどうかは分からない。本人が今生の見納めだと思ったかどうかも分からない。来年も生きて再び見るかとなれば、桜ほど似つかわしい花もない。無常を感じるのは桜をおいて他にない。
 よって入学式は桜に限る。無常で終わりがあればこそ始まりがある。9月入学で、どの花で祝うのかほとんど何も思いつかない。昼間がどんどん短くなっていくのも嫌である。満開の桜の下でスタートを切り、初夏に向けてどんどん伸びる昼間の中で充実した学窓の日々を重ねる、これをおいて他にふさわしい季節は思いつかない。
 今年は桜の開花日と合わせてカルガモが3羽、センターの池に渡って来た。今日はと見れば桜の花びらに埋め尽くされた水面を、航跡のように半円形の切れ目をつけて静かに泳いでいた。もみぢの葉で埋め尽くされた水面をオシドリが同じように航跡を付けながら泳ぐ様を描いた絵のようだと思った。これから何羽のヒナがかえるだろう。
 センターへの道すがら、そして帰り道、ここにもあったか、そこにもあったかと街中をここに桜があるのだと、自らを突然主張するような一本だけの桜もセンターの並木同様に満開である。花が散り青葉になればまた元の通りに誰も振り向かない。秋になって葉が散り始めても誰も振り向かない。この数日だけが晴れの舞台で、あとはずっと沈黙したままである。
 年度の始めに桜はふさわしい。長い冬に終わりを告げ、生き生きとした季節が訪れるかと思うだけで心は浮き立つ。詩歌に桜を求めなくとも、今、目の前で咲いているのが良い。まことに桜は語るにつきない。センターの桜はよろしからずや。