〔巻頭言〕

みんなつながっている、次は誰の為に何をすべきか!

研究所長 小野 栄一


 私は、恐竜、動物、自然、宇宙、美しいもの、不思議なものや、ことに関心があり、日本でロボット研究の草分けの1人であられた森政弘先生(当時、東京工業大学教授)の研究室へ進みました。先生は、大分県別府市にある社会福祉法人「太陽の家」の重度肢体障害者の実験住宅テトラエース(1969〜1970年)にも関わられました。そこでは、手足が不自由であっても、自立して住みやすい住宅の研究が行われ、ドアやカーテン、テレビをボタンで操作できるように日本で最初のリモコン(超音波リモコン)やお尻を清潔にできるようにと温水洗浄便座など、先駆的なことを取り入れ、実際に障害のある人に住んでもらう試みがされました。
 私は、1983年に大学卒業後、経済産業省(当時通商産業省)の国立研究所(現在、(独)産業技術総合研究所)に入り、布を取り扱うロボットを研究し、世界で初めてロボットハンドで積んである布から1枚を取り上げて任意の場所におくことを実現しました。それが縁で、ロボット研究に従事するかたわら1994年から医療・福祉関係を学ぶこととなり、それらの現場が抱えている問題を研究者や技術者と話す機会があれば、多くの研究結果や知識を役立てて貰うことができるかも知れぬとしばしば思いましたので、その啓蒙も始めたのでした。それが契機となって、厚生労働省の初代の福祉工学専門官として転籍出向することになりました。2008年のことでした。そしてその後、現在の研究所に異動し、この4月から研究所の所長を拝命しました。
 パラリンピックは、英国のストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷者センターの1948年アーチェリー大会が原点です。1965年「太陽の家」を開所した中村裕医師はその病院に1960年に留学し、スポーツを医療に取れ入れていることに衝撃を受け、当時、日本では患者は安静にしているのが常識の時代の中、帰国後にその手法を実践し、東京パラリンピックの誘致にも尽力されました。その結果が、1964年の東京パラリンピックです。中村医師は海外の選手は大会後も明るく仕事を持って生活をしているのに、日本選手では自宅か療養所で世話を受けている人が多いことに気づき、「身障者はこれからは慈善にすがるのではなく、自分自身で自立できる施設を作る必要がある。」と思われたそうです。それで、翌1965年に「太陽の家」を開所、その後、授産施設や立石電機の協力による株式会社としての「太陽の家」オムロン太陽電機(1972年)ができました。この会社では、環境に創意工夫を凝らすことによって、体が不自由でも働くことが可能で、初年度から黒字でした。その後、ソニー、ホンダなどと支援の輪が広がりました。
 かつて中村医師や森教授らは、目的達成のため、様々な立場の人々の協力を仰ぎ、総員の知恵を絞って、身障者のための新しい道を拓いて行かれました。国立障害者リハビリテーションセンター(国リハ)にも障害をお持ちの方々が人生を楽しみ、笑顔を獲得されるためならば、努力を惜しまない様々な職種の人々がいます。必要は発明の母、と言われますが、それなら父は誰でしょうか? 私は熱意ある人との連携かなと思っております。
写真:研究所長 小野栄一
 私どもの研究所が、今後さらに、国リハの特徴を活かすべく、障害をお持ちの方々の自立や支援に向かって、現場に即した夢のある研究と開発(成果の普及と活用・人材育成など)を促進し、国立機関として皆様のご期待に添えるよう私も尽力する覚悟でございます。