〔トピックス〕
熊本地震の政府現地対策本部への派遣を経験して
前 研究所 障害福祉研究部長 稼農和久

 まず、今回の熊本地震により、犠牲となられた方々に心よりお悔やみを申し上げます。また、長きにわたる避難生活を余儀なくされている方々、家屋等の損壊等でご苦労をされている皆様に対しまして、心よりお見舞を申し上げます。
 私は、①4月24日〜30日、②6月1日〜4日の2回に渡って、厚労省の熊本現地対策本部長として、支援業務に携わる機会をいただきました。以下、特に1回目の派遣時の状況を中心に、現地の状況、対策本部の支援業務等について綴ります。
全体状況
 1回目の派遣は、熊本で最初に震度7の地震が起こった4月14日から10日目の時期に当たりました。14日の「前震」後に、大きな余震が続く中で、熊本の皆さんはそれ以上の揺れが来るとは思っていなかったところに、16日に更に強い「本震」が襲ったため、かなりの恐怖だったようです。そんな中、多くの人々が避難所や車中で泊まる日々が続いていました。
 私は、4月28日に益城町の総合体育館や保健福祉センターを視察しましたが、ロビーや廊下など、至る所で、多くの避難者の方々が生活されていました。総合体育館はアリーナの天井が落ちる恐れがあるためアリーナ自体は使用できない状況でした。また、益城町の水道は、大元の太い配管が破損しており、復旧に時間を要していました。現場では、配食、給水、風呂の設置など、自衛隊が精力的に活動されていました。
また、医療チームや保健師チームが避難者に寄り添って話を聞きながら活動をされていたのが印象に残っています。
 一方で、熊本市内は、電気、水道はほぼ通っていましたが、水道については濁水、宅地内の漏水対策が課題でした。都市ガスは、着任当初は、3割程度の復旧でしたが、4月28日頃には熊本市内は100%の復旧となっていました。ライフラインの重要性を痛感しました。
現地対策本部の状況
 政府の現地対策本部は、熊本県庁の会議室を間借りしていました。 総勢100名程度の職員が派遣されており、その中に、厚生労働省の現地対策本部がありました。
画像:現地対策本部の様子
現地対策本部の様子 中央左に立っているのが筆者
1回目派遣時は、20名程度の厚労省職員がいて、医療班、保健・衛生班、福祉班、水道班等に分かれて、それぞれが現地を走り回り、熊本県庁や関係自治体の皆さんと連携して支援業務に当たりました。医療班や保健・衛生班では、全国から派遣されている医療救護チームや保健師チームの各地への派遣の総合調整、あるいは、ノロウイルス対策、エコノミー症候群対策など避難所での医療・衛生対策を担当していました。
精神医療についても、全国からのDPATの派遣調整、被災した病院の支援などを行っていました。福祉班は、熊本県庁と連携して重点的に把握が必要な高齢者施設等の訪問調査を実施し、加えて、障害保健福祉部からも現地調査部隊が派遣され、障害児者の状況把握に努めていました。水道については、被災自治体の被害状況や復旧計画支援のため、全国から技術系職員及び管工事業者など最大で約1,000人を超える体制で支援していて、厚労省の水道課の職員がその総合調整等で現場を回っていました。
画像:益城町総合体育館の様子 画像:益城町総合体育館の様子
益城町 総合体育館の様子
 厚労省現地対策本部では、こうした各班での取組を進めつつ、時々の状況、課題を厚労本省と共有し、指示を仰ぎながら、支援業務を進めていきました。
画像:熊本城内の神社の様子
熊本市内 熊本城内の神社の様子
 「現場に寄り添った支援が重要。」これが、厚労省の歴代本部長の共通の引き継ぎ事項となっていました。県庁や関係自治体の職員には,自ら被災しながら、日々の支援業務に携わっている方々がたくさんいらっしゃいます。そうした状況も踏まえての合い言葉です。
 私は、熊本生まれの熊本育ちですが、現地本部派遣時の初日、本部に入った瞬間に、各省庁から派遣されている職員が、真剣な眼差しで、必死に連絡調整・協議をされている姿に直面し、事態の深刻さを改めて実感しました。自分としても懸命に取り組む思いを強く持ちました。
結びにかえて
 大きな震災であり、傷跡も深くて、住民の皆様の大変さは続いています。これからも、熊本の復興に向けた取組が一歩一歩進んでいくことを切に願っています。今回、支援業務に携わる機会をいただけたことは、国の役人として、また、いち熊本県人として、とても有り難く思っています。引き続き、私なりに、できることをやっていきたいと考えています。