〔随想〕
独りよがりの年の暮れ
理療教育課長  冨田 宏


 年の瀬の2大イベントといえば「第九」と「忠臣蔵」 である。「第九」は、いうまでもなくベートーベンの交 響曲第9番ニ短調作品125、1824年、ベートーベ ン54歳の力作である。「忠臣蔵」は、江戸城松の廊下 の刃傷から吉良邸討入りまでの顛末を描いた「仮名手本 忠臣蔵」を初めとするこの種の作品の総称である。この 二つがなぜ「年の瀬」なのだろうか。「忠臣蔵」は、討 入りが12月であるから納得できるが、「第九」の演奏 会が12月に集中しているのは日本だけのことで、楽団 員のボーナス資金を稼ぎ出すために企画されたものだそ うである。それにしても、洋の東西を隔てたこれらの作 品が未だに現代の我々の心を打つのはなぜだろうか。私 は近年、この二つの作品を独善的な鑑賞法で関連付けな がら楽しんでいるので、この場の座興にその一端をご披 露したい。
 「第九」は、ベートーベン最後の交響曲で、27歳ご ろから聴覚に異常の始まったベートーベンの人生そのも のの表現である。音楽家として聴覚を失うことは致命的 で、不安と焦躁の日々であったことは想像に難くない。 その苦悩と努力を凝縮したのが第1楽章から第3楽章、 逆境の中から高い人類愛を完成させたのが「歓喜の歌」 として名高い第4楽章である。これに対し、浅野内匠頭 の刃傷事件に始まった浪士達の1年9カ月に及ぶ艱難辛 苦は「第九」の第1楽章から第3楽章に相当し、吉良邸 に討入って主君の仇を取った瞬間は第4楽章の歓喜の歌 声である。悪乗りをして楽章毎に解説することとしよう 。
 威厳を持った第1楽章は、格式高い江戸城殿中を思わ せる。ピアニシモからフォルティシモにせり上げるドラ マティックな本楽章の導入部分は、松の廊下の刃傷事件 にふさわしい。元禄14年(1701年)3月14日、 江戸城に勅使を迎えて奉答の儀が執り行われる大礼の日 に、勅使供応役を勤めていた播州赤穂城主「浅野内匠頭 」が、式事典礼の指南役である高家筆頭「吉良上野介」 に刃傷に及んだのだから大事件である。幕府は、内匠頭 には即日切腹、領地召し上げ、家名断絶と厳しい処断を 下す一方、吉良には「御構い無し」とした。「喧嘩両成 敗」という当時の常識を無視した裁きが、結果的に討入 りを招くことになったのである。内匠頭が、五万三千石 の領地と自身の命を落とすことになるこの暴挙になぜ出 たのかについては諸説紛々とするところであるが、それ には触れないことにする。そのほとんどが3連音符で刻 まれるギャロップの第2楽章は、凶報を伝えるために江 戸から赤穂までの600余キロを、夜を日に接いで急行 する早駕籠を想像するのに十分である。当時、普通の旅 で半月はかかるとされた道程を、早水藤左衛門と萱野三 平の一番駕籠は4日半で走破したというのであるから、 いかに強行軍であったかが窺える。ゆっくりと歌うよう に奏でられる甘美な第3楽章は、生活の糧を失い、一挙 を控えて家族や恋人との離別をも余儀なくされた浪士達 の悲しみの歌にも聞こえてくるから不思議である。16ビ ートのフォルティシモで始まる第4楽章の冒頭は、吉 良邸の門を打ち破り邸内に乱入する場面、 元禄15年12月14日寅の上刻(午前4時頃というから正確 には15日早朝というべきか)、江戸は前日来の雪で白皚々の 銀世界(雪はなかったとする説もある)、初一念を貫き 通した大石内蔵助以下四十七士の命かけて燃えようとす る一瞬である。日本では「晴れたる青空」と歌われる歓 喜の主題は、見事本懐を遂げた男達の鬨の声、オーケス トラから合唱に引き継がれるマーチ風の主題は、吉良の 御首級を手に泉岳寺へ凱旋する浪士達の行進、終曲近く の厳かな祈りを思わせる混声合唱は、亡君内匠頭の墓前 に額ずく義士達の姿を映し出しているようにも思える。 コーダ直後の万雷の拍手は、討入りを讃える江戸市民の 喝采に他ならない。それは、赤穂浪士の快挙に対する喝 采だけでなく、幕府の失政への反骨の行動によせられた 賛意の表明であったに違いない。
 元禄は、幕藩体制の安定と上方を中心に発達した町人 文化に彩られる「栄光」の前半と、華美な暮らしが招い た幕府財政の破綻や、迷信に基づく「生類憐れみの令」 に象徴される悪政で人心の乱れた「落日」の後半に色分 けされる。一方、ベートーベンの生きた18世紀後半か ら19世紀前半の欧米では、アメリカ独立戦争やフラン ス革命に見られるように市民運動が台頭した18世紀後 半と、ナポレオンの独裁やフランス王政の復活、それに メッテルニヒによるドイツ自由主義運動の弾圧など、保 守反動政治が再来した19世紀前半に二分される。密か に民主主義運動に共鳴していたベートーベンは、このよ うな社会情勢を目にして悲嘆に暮れる後年であった。さ らに個人的にも、作曲家として大いに将来を嘱望されて いた20代と、聴覚の回復が絶望的となり、併せて気管 支や腸の病苦にまでさいなまれながら苦悩と闘う後半生 が対称的である。作曲活動においても、42歳で交響曲 第7番と第8番を発表して以来10年余はピアノの小品 などを作っただけで、目立った活動は見られない。この ように、二つの作品の時代背景やベートーベンの個人的 環境では「苦悩」と「歓喜」が逆転しているところも共 通しているからおもしろい。
 失意の底から崇高な境地に到達したベートーベンの強 靭な精神力と、幾多の苦難を乗り越えて初心を全うした 四十七士の強固な意志と行動力に讃美を贈りつつ、今年 もまた年越しをするのである。
 最後に、内匠頭の辞世の句と、「第九」の第4楽章で 歌われるシラーの「歓喜によせる」の一節を引用して古 人を偲びたい。

「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとや せん」

「よろこびにあふれて、ちょうど満天の星々が

神の計画にしたがって、夜空を悠然とめぐるように、

同胞よ、おまえたちも、与えられた道を歩むのだ、

よろこびに勇み、勝利の大道を歩む英雄のように。」