[随想]
あの時の「出会い」から
看護部長  堀 房子



 私はこれまでに臨床看護と基礎看護教育に関り、その後育児等で2年のブランクの後、再び臨床看護に携わって参りました。トータル約30年この仕事をさせて頂いております。お陰様で、私はこれまで多くの方々と出会い、いろいろな体験をさせて頂きました。出会いのひとつひとつが私にとって掛け替えのない財産・宝物となっています。 私がこの職業を選択するきっかけとなった出会いについて書いてみたいと思います。
 それは1958年12月の末にNHKテレビで放映されたドキュメンタリー番組でした。あの時の、あの出会いが私の方向を決めたのです。当時、私は小学6年生でした。
 そのドキュメンタリーはアフリカの奥地、原生林の果てのランバレネにおけるアルベルト・シュヴァイツァー博士の生活、シュヴァイツァー病院の状況、そしてそこで現地の人々のために医療奉仕活動をしている様子を映し出し、また、シュヴァイツァー博士はこれから何をしようとしているかを紹介しているものでした。そこには日本人医師である高橋功博士が、シュヴァイツァー博士と共にハンセン病の診療を手伝っている様子や、現地の人も助手として働くなどその様子が生き生きと紹介されていたのです。私は、家族と語らいながら見ていましたが、赤々と燃える囲炉裏の火と同様に、私の心は熱く燃えていたことを今も鮮明に覚えています。
 その時、私も人の役に立つ仕事をしてみたいと決めたのです。そして幼い私は、ランバレネに行きたいとさえ感じたものでした。
 今思えば、生命に対して畏敬の念を懐くシュヴァイツァー博士とその協力者達が、謙虚な気持ちで医療活動を実践していく真筆な姿を目にし、真の人類愛を感じたのだと思います。言うなれば、博士の理念の基で、それに賛同した人々が目的を共有し、それぞれの役割を担い、共働している様は、今我々が進めているチームアプローチの原点を見る気がするのです。
 看護師となりしばらくしたある日、古本屋で高橋功博士著「シュヴァイツァー博士とともに」(1961年発行)を見つけた時はとても感動したものです。今も私の書棚に静かにあって、行き詰まった時には志気を鼓舞してくれます。時には、叱咤激励してくれるのです。しかしながら先生方の理念の極一部分を真似ているだけであって、真の人類愛に一歩も近づけない自分に歯痒さを感じているのが現実です。
 1988年(昭和63年)5月24日(火)の読売新聞の社会面に、高橋功博士の貢献した内容が報じられました。厚生省は省創立50周年を記念して、「国際厚生事業功労者」に対する表彰をすることを決め、第1回受賞者に、高橋功博士が他の2人と共に選ばれたという記事でした。私は、博士とはずっと以前からの知り合いであったかのように身近に感じ、大変嬉しく思ったものでした。
 また、この記事には1958年頃のことも書かれており、気になっていた自分の原点であるあの時の「出会い」を再確認することが出来、家族に興奮気味に話したことを覚えています。今は変色してしまったその新聞記事も、私にとっては大切な宝物なのです。



 高橋功博士について一言

 博士は赤痢菌の発見者として知られる志賀潔博士の甥にあたり、眼科医であり、出身地の仙台市で眼科医院を開業していた。1956年シュヴァイツァー病院に寄付金を送ったことから博士との文通が始まり、1958年12月、渡欧の帰路、同病院に立ち寄った。そこで、博士から「半年間、手伝ってくれないか」と依頼を受け、要請に応じ"共同治療"が始まった。そして2年程遅れて夫人もアフリカに渡り、ともに現地で奉仕活動を行なった。夫妻は博士の死後もシュヴァイツァー病院に残り、1966年帰国している。
 また、博士はドイツ文学に通じ、芸術に造詣が深く、音楽を愛し、博士自身ギターの名手として知られていたようである。(「シュヴァイツァー博士とともに」より)