[随想]
通勤時間の過ごし方
病院第一機能回復訓練部長 山崎 裕功



 平成14年8月から通勤の方角が東から北に変わった。25年近く、満員電車に乗って約1時間、ひたすら東に向かっていたのに、今度は空席の目立つ(というより、確実に座っていける)電車にのって西に向かい、それから北に進んでから、下車して歩くという、通勤スタイルに変化した。もみくちゃになって、隙間のありそうな乗車口を探し、体を変形させて乗り、痴漢騒動の巻き添えにならぬよう、組んだ手の位置や体の向きに細心の注意を払っていたこれまでに比べたら、まさに通勤スタイルは変貌を遂げたといっていい。
 通勤時間も30分以上長くなったので、その過ごし方もかなり変化した。ただ長いだけなら座って居眠りパターンが愉しめるのだが、3回の乗り換えと、接続待ちを経験すると、今の1時間20分の過ごし方は、あまり気が休まらず、ハッピーには程遠い感じである。しかし、通勤時間は確かに自分のものであって、時間の経過とその過ごし方は、多くの人たちが、意識するにしろ、無意識でいるにしろ、自己流を貫いているのはどうも本当のようだ。そこで、あまり悲観的にならず、前向きにこの時間の過ごし方を考えてみようかと思い立った。勿論、人に誇れるものではなく、自己撞着に近いものになるという結果は、既に見え透いているのだが、この思考する行程こそが、実はもっとも愉しい部分じゃないかと考えている。これまでの通勤時間の過ごし方については、週刊誌や月刊本に著名人のエッセイがよく掲載されているし、一般の人達も、読書やMusic、英会話やパソコン、俳句など趣味に使うことの素晴らしさを、得意げに新聞などに投稿している。でも、ひたすらうたた寝をするとか、何も考えずに車窓を見ているとかは、これらとは別扱いらしく、自慢する人もいないし、評価されているようには思えない。でも、わたしは、ぼんやり車窓の景色を眺めているのが一番好きで、どうして評価されないのか不思議でならない。通勤時間が何時間にもなる人については差し置くとしても、1時間前後の時間を、何であくせくあたまを働かそうと努力するのだろうか。恐らく、何もしないのはもったいないとか、もっと自分を磨きたいとか、合理的に生きたいとかが思い描かれるが、それはどうもプラス思考の副産物ではないのか。前進しなければ衰えてしまう。健康志向の流れに乗り遅れまいとする強迫観念と一脈通じるものではないか。わたしは、こうした発想が生まれるのは、前進進歩を至上の価値として認め合う一方、それとは距離を置いて、留まったり、後ろ向きに歩くような生き方を認めない、悲しい社会心理現象なのではないかと思う。
 わたしは、うたた寝することは勧めないが、ボーッと何も考えずに時間を費やすことを勧める。通勤電車にのっている時間こそ、真に自分の時間であろうし、眠けの取れない頭や疲れた頭を刺激しても、効果は少なく、Musicでリラックスしようとしても、それはドリンク剤以上にはならない。メリハリのきく仕事をするには、頭を使わずに、ひたすらボーッとしている時間を確保することが望ましい。目から入ってくるものだけを認識できる程度の、最低の頭脳活動があればよい。これこそ、現代人の処世術としては、一級品だと思う。世相もわかるし、四季の移ろいも実感できる。縮んで伸びる、丈夫なゴム紐やバネじかけに、わたしたち現代人は、学んでもいいのではないか。