[随想]
「京の町と薪能そして新撰組のことなど」
理療教育部長 吉野 保



 この8月16日夕方、懐かしい友人達数名と久しぶりに京都南座前にある菊水食堂に集い、思い出に花を咲かせた。夏は蒸し暑く冬は底冷えの京都であるが、この日はまた格別の暑さで、加えて大文字(五山送り火)と重なったため、通りは夕涼みをかねた浴衣がけの老若男女で賑わっていた。そんな四條通りを眺めながら薪能の話になった。京都の薪能は毎年6月初めに左京区平安神宮境内において、京都能楽界5流により幽玄美を競う。能楽を初めてみたのは中学3年の時でこの薪能、以来魅力に憑りつかれ一時は名門に弟子入りさせてもらったこともある。当時から京都の能楽界は隆盛を極めており、今日どこかの狂言師家元のごとく内幕を暴露されることもなく、能舞台の松のように凛然とした存在であった。その昔、不明の病に臥せっている源頼光のもとに、典薬を持って参上する胡蝶と名乗る美しい女、後半、土蜘妹の精と化して頼光を襲う迫真の舞台は、ゆらめくかがり火の効果も加わって囃し方の掛け声とともに脳裏に焼き付いている。演出において能楽は不要な事象を可能な限り排除し、替わりに「空間と間(ま)」において鑑賞する側のイメージを誘うという手法をとる。「卒塔婆小町」などは初めから終わりまで老女が一人、舞台の中央でもそもそ動いているうちに終演してしまうから、鑑賞する側も相応の忍耐が必要である。「世の中、演劇あまたあれど、やっぱり能楽がよろしいなあ」という友人達との結論であった。
 さて京の町といえば「新撰組」である。葵の花に吹く時代の嵐、国リハにもマニアックな職員がおられて、近藤勇や土方歳三の生まれ故郷の多摩川周辺、日野、八王子、板橋にある勇の墓などを共に訪ねたりしている。有名な三条小橋池田屋は今は標だけが残されているが、しばしその場に佇み目を閉じると、往時の近藤や土方達の怒声が聴こえてくるから是非試してみてください。壬生にあった新撰組屯所は今、リハビリセンターになっているからめぐり合わせというか。
 午後八時、食堂を出て四條大橋に立った。イルミネーションを消した京の夜空に大文字が赤々と燃え上がった。「きれいどすなあ、今年は特に…」など嘆息の声を耳にしながらしばし見とれる。この夜一刻ばかりは新撰組の隊士も倒幕の志士達も、斬りあいを中断して東の空を仰いだのではと思いながら…。