〔随 想〕
「趣 味」
更生訓練所 指導部 生活訓練課長 山添秀次



【はじめに】
 若い頃は、ギター、音楽鑑賞、野球、バイク、車、パチンコ等 に熱中していました。今はゴルフに少しだけ興味を示す程度です が、若い頃から今もかわらずこよなく愛しているのが、 「パチンコ」です。今日は、そのパチンコの思い出をいくつか 語ってみたいと思います。

【大学時代 S43〜】
 本格的に始めたのは大学時代からでした。入学後まもなく、授 業がおもしろくなくなり(本当は授業についていけなかった?)、 向かったのはパチンコ屋でした。まだその頃は、手打ちの時代 でしたので、台の見極め(釘)と腕が伴えば勝てる時代でした。
 親からもらった20数万円の貯金があっという間に投資され、 アルバイトをしては、打ち込む日々が続きました。店の方から、 お情けで食事をごちそうになる日も何度かありました。嬉しい やら、悲しいやら。台の見極めと腕がある程度できるまでには、 1年位かかりました。そうなればしめたもの、行けばほとんど 勝つようになりました。すると店の方が一枚上、負け続けた時、 食事をごちそうしてくれた店の方から「外回り」を依頼され、 断るわけにはいかず、「ああこれからなのに」と思いつつ引き 受けました。しかし、外回りは立ちっぱなしの結構大変な仕事 でした。そのうちに、仲間や知人や負け続けている人に対し、 玉が釘にひっかかれば、多めに玉をだしてやっていました。 心の中で、「俺は心の優しい人間だ」「福祉を志すにふさわし い人間だ」なんて思っているうちに、クビになりました。後で 考えれば当然と言えば当然だと思いました。

【新規採用された福岡時代 S47〜】
 採用された頃は、野球や酒に打ち込み、パチンコ屋にはたまに 行く程度でした。

【別府時代 S52〜】
 1,000円分の玉を買い、抽選で当たると確実に終了する台を もらえる店があり、お箸の下に赤印がついていれば当選です。 しかし、結果はさんざんで、1/20回程度の確率であり、 結果的にはマイナスでしたが、抽選の瞬間が何とも言えない 「わくわく」した気持ちでした。

【塩原時代 S56〜】
 この時代です。今もときめく「スリーセブン」が登場したの です。真ん中に777と揃えば大箱いただきですが、揃うまでには 軍資金の投資がばかにならない。ある土曜日、5万円持参で 10時の開店前に並ぶ。開店と同時に全力疾走(100m→8秒0)。 目指す台をゲット、打て度・打て度揃わない。そのうち軍資金 が底をつく。食事休憩時間は30分、塩原まで片道25キロ(30分) 往復1時間どう考えても無理。そこで、顔なじみの従業員に 頼み込み、へそくりの3万円を取りに帰る。再び挑戦するも、 777が揃わない。台を叩くは、押すは、引っ張るはで、とうとう 従業員から叱られる始末、最後の1,000円に祈りを捧げるが ・・・とうとう777は、夢の夢・・・
「後ろ髪ひかれる思い帰路につく塩原までが辛い道のり」

【神戸時代 S59〜】
 勝ちに行くためにはデーターどりが必要、ほとんど毎日通う。 そして、長い目で見た場合、常連と仲良くしないと良い台は とりずらい、ご機嫌取りやら100円ジュースを配りまくる。 また、格好をつけるため髪はパンチに近いパーマーをかける。 お陰で努力の甲斐あり、年間50万円程度の収入を得ることが できました。もちろん確定申告はしませんでした。

【福岡時代 S63〜】
 1万円程打ち込んだので、そろそろこの台に見切りをつけよう とした時、確変をゲット、その後、何と32連チャン。20連チャン を過ぎたころから、店長、従業員、他のお客が見にくる。従業員 言わく、「どこまで続くかわからない?」トイレも、コーヒーを 買いに行く余裕すらない。「もういい終わってくれ」という心境 でした。しかし、両替後、16万円の金を手にした時、周囲を見渡 し、1人で含み笑い。

【おわりに】
 この後の勤務地である所沢→神戸→塩原→現在の所沢は省略し ますが、その後パチンコからスロツトに変わったことと、トータル 的には決して勝ってないということです。(車でいえばベンツが 買えたかも?)ではなぜ、それでもいくのか→それは一言でいえ ば「好き・ストレスの解消」になるということです。集中すると、 あのガンガンの音楽も聞こえず、自分の世界に入れるということです。
 30数年を振り返り、家庭崩壊の危機を何度も乗り越え、現在の 心境は@が仕事と家庭、Aがパチンコ(スロット)、ここを間違 えては絶対ダメだと思っています。
 最近では、かなり熱も冷め、月に1回か2回程度、お店にお邪魔 しております。勝ちたい気持ちはありますが、「トントンでいけ ればよいなあ」と思って打っています。