〔研究所情報〕
網膜色素変性症の遺伝子診断
前障害工学研究部長・研究所長 加藤誠志


 当センターを利用している視覚障害者の方々が罹患している疾患で最も多いのが網膜色素変性症(以下「色変」と略します)です。日本全国では、約4万人の色変患者がいると推定されています。色変は、夜盲の自覚に始まり、視野狭窄・視力低下そして最悪の場合失明に至るという、進行性の網膜変性疾患です。単一遺伝子の変異によって起こる遺伝子疾患で、特定疾患(難病)に指定されており、現在その治療法はありません。
 筆者は、平成13年に障害工学研究部長として当研究所に赴任しました。以前、ヒトゲノムプロジェクトに関わっていたこともあり、研究テーマを「網膜色素変性症の原因遺伝子探索」として研究を開始しました。当時、欧米ではすでに40種類以上の原因遺伝子が見つかっていましたので、これらの遺伝子に日本人の色変患者でも変異が見つかるかどうかから検討を開始しました。当センター病院眼科の協力を得て69名の色変の患者さんから血液の提供を受けました。血液に含まれている白血球からゲノムDNAを抽出し、標的遺伝子の領域を増幅した後、塩基配列を決定しました。最初に調べた遺伝子は、米国で最も多くの患者で変異が見つかっているロドプシンという蛋白質の遺伝子です。ところが、我々が調べた患者さんの中に、この遺伝子に変異を有する方はいませんでした。さらに、10種類の遺伝子について変異探索を続けた結果、4種類の遺伝子の中に病因変異と疑われるものを見つけることができました。これらの遺伝子に変異があると視細胞内で異常な蛋白質が作られ、その結果視細胞が変性し、網膜の機能が失われると考えられています(図1)。変異がわかったものについては、今後、病気のメカニズム解明や治療法の開発を行っていく予定です。
 色変の原因遺伝子の多くは、網膜細胞にのみ存在して働いている遺伝子です。そこで、原因遺伝子探索と平行して、ヒトの網膜細胞で働いている遺伝子を網羅的に集め、その中から新規の原因遺伝子候補を探す研究にも取組んできました。その過程で、細胞の中で働いている遺伝子を完全な形で取り出すことができる新しい技術(完全長cDNAライブラリー作製法)を開発することに成功しました。この技術によって、従来法が抱えていた多くの問題を一気に解決することができました。最大の特色は、取り出した遺伝子(cDNA)が完全なものかどうかを判定できることです。第二の特色は、従来法の100分の1の量の出発材料(細胞試料)で済むことです。そして第三の特色は、これまで困難であった非常に長い遺伝子を完全な形で取り出すことができる点です。この方法を用いて、新規の色変原因遺伝子候補を見つけることができました。本研究でヒトの網膜細胞株から取り出した約20万個の完全な遺伝子は理研DNAバンクに寄託してあります。これらは世界中の研究者が自由に使うことができますので、視細胞の変性が起こるメカニズムの解明や、変性を抑える方法の開発に利用されるものと期待しています。
 新しく開発した技術は、ヒトの細胞に限らず、どんな真核細胞にも適用できる汎用技術なので、企業で実用化を図ってもらいました。これまでに、酵母、ダニ、クモ、カイコ、メダカ、メクラウナギ、サンショウウオ、カニクイザル、トマトなど、様々な生物の様々な組織の完全長cDNAライブラリー作製が大学や研究機関から委託され、これらのライブラリーを用いて得られた多くの研究成果が国際誌に報告されています。昆虫の組織のように、わずかな材料しか入手できない場合は、これまでの100分の1の量の材料で済むという本方法は、たいへん魅力的です。また、クモの糸の成分である巨大な蛋白質の完全な遺伝子が得られる等、長い遺伝子がとれるという実績も出ています。このように、完全な遺伝子をとる技術としては、世界一の技術であることが証明されつつあり、今後も国リハ発の独自技術として世界中で利用されることになると思います。
 障害工学研究部における色変の遺伝子研究はここまでとし、今後は感覚機能系障害研究部の視覚障害研究室に引き継ぐことになりました。具体的には、色変の患者さんの皮膚細胞等からiPS細胞技術等を利用して網膜細胞を作出した後、この中で働いている遺伝子を我々が開発した上記技術で解析し、原因遺伝子の特定や網膜変性のメカニズム解明、治療法の開発を行う予定です。近い将来、本センターが色変の遺伝子診断や治療の中核機関になることを目指して、研究に取組んで参ります。
 なお、本研究は、血液を提供して下さった多くの色変患者と晴眼者ボランティアの皆様方、当センター病院眼科の皆様方、新技術を共同で開発した(株)日立ハイテクノロジーズの研究員の方々、そして障害工学研究部の流動研究員と東洋大学から実習生としてこられた多くの大学院生諸君の協力の下になされたものであることを記し、ここに感謝の意を表します。


(図1)遺伝子変異による網膜の変性