〔震災レポート〕
東日本大震災派遣報告
自立支援局秩父学園
日野憲文
仲川正徳


 この度の東日本大震災において被災された皆様におかれましては心よりお見舞い申し上げます。


(写真1)「多機能型事業所 田村」の外観
(写真1)「多機能型事業所 田村」の外観

  1. 派遣場所

  2.  福島県田村市大越町牧野字堺68−2
     「多機能型事業所 田村」(写真1

  3. 期間

  4.  平成23年3月24日〜4月6日(24時間勤務)

  5. 業務内容


  6. 感想

  7. 1)日野
     福島の避難場所では利用者と24時間寝食を共にしていたので、休まる場所がないというのが正直な感想である。私はわずか2週間という期間であり、先が見える状況であったのでがんばろうという気持ちで乗り切れたが、利用者、職員にとっては先が見えない状況であり、気力、体力が限界に達しているということは容易に推測できる感じであった。
     電気、ガス、水道とライフラインが通っていたことや救援物資により、衣食に関しては最低限度確保されていたが、住に関してはホールの中に全員がいる状況であったのでプライバシーの確保はできず、トイレ、シャワー室は全く足りず、マットレスも人数分ないという感じであり、劣悪な状態であった。
     避難場所は原発の退避圏外であったものの、外に出ることは最小限に控えていたので散歩等も殆どできず、ホール内でラジオ体操やちょっとした運動プログラムの実施しかできず、実際の支援とは程遠く、利用者の方にはただただ我慢を強いるものであった。
     私は二次避難場所として移動してきた鴨川青年の家では1日のみの滞在であったが、福島の避難場所よりは寝る場所の確保、食堂の確保ができていたので、以前よりは住環境という意味では良くなっていた。しかし、一般の研修施設ということで、同じ空間内でも移動距離が長くなってしまったり、階段があったりと利用者の方には困難と思われることがあった。また、海が目の前にあり危険な個所も多々あった。

    2)仲川>
     派遣が決まり、準備をしようとしたが、実際にどんな状況なのかが全く知る術がなかった為、テレビで見ているような災害地(同県での南相馬の様な津波被害に遭った場所)派遣を想像していた。かなりの覚悟で準備(持って行く物やモチベーション)を行った。
     実際はライフライン(電気・水道)は確保され、また、食事3食頂けたので想像よりは、環境的に恵まれていた。
     着任2日目までは、私たちも見通しが付かず何をしてよいか解らなかった。これがかなりのストレスとなった。全体的な生活プログラムも実施出来ない(放射能の関係にて外出が制限)事が影響している。
     利用者や職員は3月13日より多機能型事業所田村に避難しており、特に職員の疲労は見た目にも感じ取れた。利用者は思いのほか落ち着いて生活をしており(あぶくま更生園)軽度な障害の方々は、思い思い(トランプやTV等)に過ごし、元気なようにも見受けられた。しかし、日中のほとんどを体育館のような所で座って過ごし、他の利用者から干渉は受けやすい状態であった。
     また、利用者及び、職員は皆被災されているが、利用者、職員の家族も被災しており、仕事も大変であるが、家族の心配もしなくてはならない。家が原発避難区域外の方々は余裕があるが、やはり地域内の方は、家の事等かなり気にしており、負担が大きいと感じた。私たちは努めて明るく振舞ったがそれがどのように感じられたかは疑問である。
     約13日間、24時間(13日間途中6時間休憩あり)利用者と一緒に生活して、慣れた様に思えたが、鴨川で12時間ホテルで過ごした翌朝は、とても疲れが取れた様に感じた。プライベート(とはいっても3人部屋だったが)な時間が持てるという事はとても貴重な事だと感じた。

  8. 終わりに

  9.  被災されている利用者の生活は日々刻々と変わっていくので、その都度その都度状況をしっかりと把握しながら、最善の支援をしていく必要がある。その為に私たちも被災地に行った人間として、現況を正確に伝え、どのようにしたらスピーディーに支援を行っていけるのかを伝えていく必要性を実感している。




(写真2)就寝時の様子   (写真3)食事(朝はご飯と汁物、昼食は菓子パンと飲み物、夕食はご飯のみ)
(写真2)就寝時の様子   (写真3)食事
(朝はご飯と汁物、昼食は菓子パンと飲み物、夕食はご飯のみ)