〔トピックス①〕
国リハニュースに寄せて 福島への災害医療支援
―17名の看護師の精鋭たちの活躍―
看護部長 粟生田友子

 2011年3月11日に発生した東日本大震災の後、11ヶ月を経て福島県より野田首相への要望書が出され、国は国が開設する病院/診療所等から医師、看護師等の派遣を行うなど人的支援を行うことを検討しました。その派遣要請に応えるため、国立病院の中で唯一派遣に応じたのが本院でした。その一年間の準備から派遣までの様子をここではお伝えしたいと思います。

1. 派遣の検討

 2012年2月11日厚生労働省社会援護局からの看護師派遣の要請がありました。条件は①派遣期間6ヶ月または1年、②派遣スタッフは現地に常駐する、③3週間未満の短期派遣は不要の3点で、この条件下で派遣要請に応えられるかを検討するよう求められました。
 本看護部は即日緊急会議開催の上、派遣に応じることができるかを確認し、要請に応じることを決断しました。そしてすぐに派遣者のリストアップにかかり、自らの希望を原則として応募を募り、21名が手上げをしてくれました。けれどもこの時の看護部の議論の記録には次のようなことが残っています。

1)福島第一原発事故による被爆への懸念:現地の被曝線量は事実どうであるか

2)派遣の具体的な労務状況:派遣期間、派遣者数、宿泊場所、派遣先での勤務時間、週休の有無、旅費の有無や勤務の扱い

3)現地における医療ニーズの状況への適応:リハ病院の看護師で果たして何ができるか
です。

 議論の末、全体の派遣期間を6ヶ月間とし、1名ずつの看護師が3週間のローテーションで4月9日から要請のあった医療機関に順次赴くこととしました。
 福島でも、厚労省からの派遣看護師を引き受ける施設を募っていたようですが、結果的には1施設のみが受け入れに応じ、福島原発の北西に位置する南相馬市原町区にある青空会大町病院が私たちの派遣先と決まりました。

2. 派遣先の状況と活動状況

 実質の派遣期間は1年間に延長され、17名(男性2名、女性15名)が3週間交代で現地に赴きました。
 最初の派遣は2012年4月で、南相馬市内の看護師/医師は震災前の約7割まで減少、派遣先の病院では震災前に100名いた看護師が約60名に減っていた時期でした。派遣先の病院は震災直後から医療スタッフの確保に奔走し、行政との交渉を進めていました。そのため、最初の看護師が派遣されたときから多大な歓迎ぶりが伺え、現地の藤原看護部長自らが駅まで出迎えてくれ、被災地を回り、案内もしていただきました。その上での3週間を過ごしていくといった流れで日々の任務を果たしてきました。

はじめの頃

 最初の看護師は40代の看護師長でした。派遣交代時に引き継ぎの必要事項を明確にし、衣食住の引き継ぎ、勤務時の引き継ぎ、現地での様子の申し送りなどの準備をして出向きました。派遣開始から5人目までは師長及び副師長陣で派遣体制を固め、この頃には派遣される側も、受け入れる側もようやく息が合い、気持ちがすぐに通じ合い、業務上のできるかぎりのことを一緒にしていくようになってきました。病院は10床を増床した頃です。現地に馴染み、役割を果たす手立てをつかんでいった時期と言えると思います。

病床稼働数の回復の兆しに見合う幅広い業務への対応

 派遣先病院などが中心となって風を起こし、医療圏全体では看護師数が回復してきました。しかし相双地区では看護師不足がまだまだ続いていました。派遣先の病院では各地から派遣された看護師たちが合流し、協力しあって病棟の一員として業務にあたりました。3週間毎に交代で来る看護師に、現地ではその都度オリエンテーションして下さり、受け入れることの努力をしていたと感じられ、スタッフの体制や病床数回復の兆しに伴い,さまざまな業務に追われ,日頃自施設では体験しない業務も負荷されてきました。  

派遣延長/大町病院での病棟の稼働再開

 9月、許可病床数188床のうち順次増床し104床が再開されました。派遣看護師は時期によって業務の繁忙状態に変動があり、比較的ゆっくりと業務ができる時期もありましたが、とても忙しい業務に追われる時期もありました。そして派遣看護師の特性を活かすケアや研修が組み込まれるようになり、リハビリテーションテクニックを活かして患者様を歩行できるようにケアしてきた看護師もいました。
 派遣する側では、本人や家族の健康状態が変化し、派遣者の交代も余儀なくされました。このため病棟での勤務を変更し、派遣体制を再偏するに至りました。  

派遣の終結と独特の人と人の繋がりの形成

 派遣先の病院の復興は不十分ではありましたが、2013年3月末をもって国の方針で派遣打ち切りとなりました。最後の派遣看護師は50代のベテランの看護師でした。次の看護師が来ないことから、気持ちの上での負い目もありましたが、最後まで誠意を尽くすことで終結を迎えました。
 この間には、独特の繋がりや絆が形成され,共に頑張ったという感情が共有されたように思います。派遣を打ち切った後、先方から看護部長と、派遣で一緒に活動した師長さんとスタッフの訪問を迎え入れたときには、病院先玄関では、互いの顔を見るなり、言葉を語ることなくしっかりと抱き合いました。ハグを通して互いの労苦をいたわり、感謝の気持ちが行き交ったように思います。
 

3. 看護師が抱えた使命感

 ハグの意味はなんだったのか。一つは看護師が使命感を背負ったことであり、もう一つは3週間という間で起こった人と人とのさまざまな出来事や感情の共有であったと思います。
 派遣先から帰ったあとに全員で語り合いの機会をもったとき、派遣された看護師たちにはさまざまな使命感のようなものがあったことがわかりました。それは次のようなものでした。
1)自らに課せられた派遣期間を勤め上げなければならない/勤めあげたい
2)医療事故だけは起こさない/起こさないようにしたい
3)派遣先に迷惑をかけない
4)無事に次の人に引き継がなければいけない/引き継ぎたい
5)病院の看板を傷つけられない
6)リハナースとしてやれることを精一杯やりたい。
7)この機会を活かして復興の役に立ちたい
 看護師個々には長期間の出張の経験は多少ありましたが、派遣という勤務はそれらとは異なる感情が生じていたようです。「病気をしたりして休んではいけない」と思い、「不慣れな臨床の場で医療事故を起こして国リハの看護師の名前を汚してはいけない」とも思い、「とにかく無事に次の人に引き継いで行かなければならない」など、多くの重い使命感をもって臨んでいたことがよくわかります。
 

4.送り出す家族と派遣中の家族に起こった出来事

 派遣された看護師の家族にもさまざまな思いが去来したようです。
 派遣までに、家族は、仕事だから仕方ないといった<派遣されることへの割り切り>、被爆線量計をもたせ<放射能被爆への心配と対応>をし、家族が離ればなれになることに慣れてないため<派遣される家族と残される家族双方の離ればなれの生活のやりくりの心配>をし合い、派遣される家族を思う<送り出す家族への現地での生活や食事の心配>、そして派遣期間に<途中で起こる出来事への約束の取り決め>などの対応をしていました。
 また、心配していたとおり、3週の間には家族に変化も起こり、認知症の家族の病状が悪化してしまったもの、妻が派遣されたことで生活リズムの要を失い、家族が口をきかなくなっていたもの、そして想像していたよりそれぞれの生活を楽しむことができたものなど、いろいろな出来事を経たようです。

さいごに

 派遣期間の初期に、看護師が測定した被曝線量は、0.50μSv/hが記録されています。これはかなり高値です。7月には値は半減し、記録は途絶えています。
 17名の看護師の精鋭たちが頑張って任務を無事終えてくれたことに心から感謝しています。派遣自体はそれなりに意味深い体験でした。今後さらに大町病院が病床を回復し、地域医療に貢献していって下さることを祈っております。